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日記をつけるようになった話

年末に書くような(年始から読んでもらうような)話ではないんですが。

 

全くの私事なんですが、半年くらい前から(ブログとは別で、ごく個人的な)日記をつけるようになりました。

そんなに大した内容ではないものの、1日に数行、今日は何をして、何を思って、今後に向けてどんな予定が増えたか、その程度を忘れないようにEvernoteに「日記」ってノートブックを作って、日付をタイトルにして、1日1ノートで記録していく。そんな感じで。

 

逆に言えば、自分は今まで日記というものを特につけていませんでした。

それは、このブログを持つ以前にも何度かブログを始めようとしては何も書けなかった、全然続かなかったのと同じ理由で、「自分には書くような、報告するような日常がない」と思って生きていたフシがあって。

朝起きて、会社に行って、帰りにゲームセンターで音ゲーをして、帰ってテレビを観るかラジオを聴くかして、寝る。

特に週末や休日に一緒に遊びに行くような人も居ないし、誰かと繋がりたい時はもっぱらネットの上の見知らぬ人と。

完全に、その繰り返しで生きている自分には、特に日記に残すような話もないし、ましてや誰かに「今日はこんな事があって~」と伝えるようなコトも、何もない。

そんな風に思い、特に日記やブログを持たずに生きている感じでした。けっこうな長い間。

 

「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいいの。私は、私が嫌い。」

今年の夏のスタジオジブリの映画「思い出のマーニー」の冒頭で、主人公の言葉でつぶやかれる一節ですが、自分はこの感覚を「わかる」と思いながら観ていました。

基本的にこの世界は「輪の内側」の人達のために作られている。でも、とうの昔に落ちこぼれた自分は、輪の外側の人間。輪の内側の人達は、この世界で色んな場所に行って、色んな人達と色んなコトをして、色んな経験をして、社会を循環させていくだろう。でも、そういうコトとは自分には縁はないだろう。輪の外側に居るから。

そして、それは自分が自分の責任で外側に落ちただけで、今までに自分が内側にいるだけの義務や努力を果たしていなかったから、結果として今は外側にいるだけで、それを棚に上げて内側にいる人達を羨んだり、逆恨みするようなことは、してはいけない。悪いなら自分だし、そうした自分を自分で嫌っておくか、あるいは何も期待しないで、ずっとただ生きていけばいい。

そんな意識を自分は、内側に強く持っていたように思います。けっこうな長い間。

そして、その種の、要は自分の内側でナチュラルに持っていた劣等感や疎外感のようなものは、シンプルに学校社会の中でもはぐれモノだった10代の頃は割とドライな、そんな苦でもないようなものだったはずが、自分がいつしか学生じゃなくなって、社会に出て、やがてアラサーになり、30を超えて、いい年になればなるほど自分の内側で大きく、重くなり、自分を圧迫していたように思います。

その感覚に対して、たまに「つらい」と思うこともあるけど、でも今更どうしようもない感じ。今更どこからどう手を付けていいかもわからないし、見当もつかない。ただ実体の見えない不安や「自分は社会に対して間違っている」という感覚。そういう感覚が、いわゆる「自分に自信がない」という自分、揺るぎない自己肯定感の低さを形成している感じ。 

 

そんな自分なんですが、色んな巡り合わせで1~2年前くらいから、会社と家との往復とは別に、趣味の音ゲーやお笑いの世界でネットで繋がっていた人を介して、色々と人前に出たり、人と会ったり、誰かと共同でイベントなどの準備とかをする機会が少しずつ多くなりました。

自分は、その時々で、色んなタイプの良い人に巡りあわせられる運だけは人並み外れた量、相当に持っている、と思っています。

最初は月に1回あるかないか程度だった、最初は誰かが開くイベントにいち参加者として紛れ込んでいるだけだった自分が、徐々に回数が増え、気づいたら今年くらいからはもう、月に2~3回は普通にあるようになり、ほぼ毎週何かしらあるようになり、逆に準備する方になったり、準備してる人達に参加しないかと呼んでいただけるようになったりして。

そのうち本当に頭のなかで覚えているだけでは管理しきれなくなり、日記をつけ、スケジュールを書くようにして日程をダブらせないようにして、約束したことを忘れないようにして、何を話し合ったのか書きとめていくようにしないと覚えてられなくなり。

それが自分が日記をつけるようになった、一番の理由だったりする。

 

 

大晦日になって今、夏頃からつけだした日記を読み返していると、単純に自分がやたらめったらに迷走した記録、色んな人に会って色んなコトをして、色んな経験をして、たいがい失敗して、凹んで、めちゃくちゃネガティブになったりもするけど、色んな人から色んなアドバイスを受けて、解決する糸口を見つけてなんとかリカバリーして、また色んなコトをする、っていう日々を自分がなんとかやって来たことに気づいたりした。出来てるじゃないか、いつの間にか。って思った。自分は出来ないと思っていた、そういうコトが。というような。

あまり詳らかには書くことじゃないけど、きっと自分は今回の人生でこんな事はしないんだろうなと思うような事をしたり、場所に行ったり、買い物をしたりして、その度に自分の中にあった「きっと自分はこういうことは死ぬまで出来ないだろう、普通の人はごく普通にできるんだけど」という感覚が解けていく、軽くなっていく、そんな日々の連続でした、なんか今年は。

 

 

とはいえ、別にそこまで劇的に日常が変化したわけでもないし、別に今では友達も多くなって毎日がイベントフルで楽しいです!ってわけでも全然ない。今でも全然冴えない日常を送っている、という感じはあるけど。

でも、前と違って、毎日の中でたまに、急に「ちょっと飲みに行こう」って連絡が来たり、逆に誰か誘って遊びに行ける程度には、自分の周りには人が居る、っていう感覚、それがあるだけで、自分の中にある重かった感覚がだいぶ軽くなったのを感じている。

まだまだ自分にとっての課題は多いし、劣等感も全然あるし、どうにかしないと苦しい、つらいって気持ちは消えてはいないけど、そこに対しての「どうしたらいいかわからないけど、どうにかしたい」「そして、きっとそれは死ぬまでどうにもならない」っていう気持ちの部分が、抜けていったのを感じている。ずっと底を打って這っていた心のグラフが、やっと少し右上がりに動き出した、そこに多少の希望を感じられているような、そんな感じ*1

 

ただ、今の自分は今の自分で間違っていないし、(自分としては、きっと)いい方向に向かっているとは思うけど、でも今の自分が人に何かしら必要とされている理由があるとするなら、それは自分がひとりで「輪の外側」で、なんかわけのわからない劣等感や自己肯定感の低さを持ちながら社会にギリギリで接していた時に作っていた価値観や自我があって、それを面白がられているというか、それがあるから自分は今、何かしらで人から呼ばれているんだとも思う。そして何より、どのみち自分は一生この感覚から、この先、多少は軽くなっていくとしても、完全に逃れられることもないだろうと思っている。

なので、そういう底の状態に居るような、劣等感を貯めこんで過ごすような状態の日々も否定したくないし(また戻るかもしれないし)、その時にしか出来ないような自我の形成、モノの見方や世界への感覚を大事にしておくことも、絶対に悪いことではないと思っている。

自分の中の暗い部分は暗い部分で肯定したまま、それだけじゃないように在ろうと思っているし、どうしても自分から見て同じ種の暗さを宿している人を見るとすごく惹かれるものもありつつ、自分にはない種の明るさを持つ人にも憧れる、そんな感じで過ごしていけたらと思う、そんな感じです。

 

何はともあれ、2014年は本っっ当に色んな方にお世話になりました。

来年もひとつよろしくお願いします!。

*1:もっと言うと、本当に恥ずかしい表現になるけど、自分は今から、本当は10代の頃に済ませてないといけないような、思春期~青年期のようなライフイベントを全部遅れて履修して、今からクリアしていこうとしてるんだろうな、と思ってる。現実的に出来るのかどうかは、ともかく。