宇多田ヒカル『First Love』と、変わっていく、日々と私達の欲求のこと


宇多田ヒカル - First Love - YouTube

宇多田ヒカルのファーストアルバムが発売されてから15年を記念してリマスター版が出るらしい。

自分も今でも時々聴いてる、って程にまでに思い入れはないけど、でも全曲パッと思い出せるくらいには好きなアルバムだし、当時よく聴いたほうだと思う。前回にちょうど(音楽的に)対の存在のようなキスディスの事を書いたけど、どっちもどっちで好きだった。

 

15年前、何を過ごしていたかを思い出す。

ひとりで過ごす長い時間は、よくテレビを見ていた。ラジオを聴いていた。JR花園駅近くの今はなきパチンコ屋の2階にあった、今はなきゲーセンによく通ってた。お笑いはまだ興味がなかった。

音楽の情報を得たければ本屋で雑誌をよく買ってたし、気になる音楽は自分で買うかレンタルするしかなかった。ゲームの情報は本屋でよくゲーセンの帰りに立ち読みしてた。遊びたい家庭用ゲームも、やっぱり自分で新品か中古で買うしか無かった。自分があんまり裕福ではなかったのもあるけど、割と同じCDを何度も聴いたり、同じゲームを飽きるまで色んな遊び方をしたり、同じ本を何度も読んだり。そんな事は普通だったと思う。身の回りにあるものは、常にちょっと足りてなかった。

まだインターネットが普及する前、携帯電話もまだ「携帯する電話」の域を出てなかった頃、まだ多くの人は、生きていく上で接する情報のほぼ全ては、大きなメディアを通して一方的にインプットされるのみだった。アウトプットはごく近しい人とやりとりする程度だった。自分の場合だったら、学校の友達とMDを交換したり、裏ワザの情報をやりとりしたり。自分の意見を世界に発信するとか、自分がテレビやラジオの中の人のように人前で何かを表現したりするなんて考えもしなかったし、そういう事がしたければ、そういう道を進んでそういう職業になるか、せいぜいロッキンオン辺りに、不器用な自分語りと好きなバンド評をごたまぜにした、やたらと長い文章を送りつけて掲載されることを夢見るしか無い、と思われていた頃だった。*1

だから、インターネットの普及は画期的だった。

誰の許可を得なくても、雑誌や会社などの選別を受けなくても、自分で自分を表現することができる。大きなメディアがやっているようなことを、自分も出来る。それは、とても夢のある、すばらしい未来のように思える話だった。

実際にインターネットの世界では黎明期からテキスト、音楽、イラスト、あらゆる分野で無名の天才が生まれて、圧倒的な才能と支持を勝ち得てスターになったりした。そしてそれを見て、また誰もが「自分もああなりたい」と思って、自分を「インプットするだけの側」から「アウトプットも行う側」へと参加していった。

最初は広大な空間に色んな人がバラバラに、好き勝手に住んでいた感じだったインターネットは、やがてmixiの頃から全体が地続きで囲まれるようになり、誰もが同じ括りでIDを与えられるようになる。*2さらに、それはブログ文化やニコニコ動画ツイッターの普及、さらにネット全体に対する参加者の増大=平たく言ってしまえば、今までのような「一部の人だけの」インターネットではなく、もはや子供から大人まで、誰も彼もがインターネットを使う時代になったこと、で、その状況は更に拍車をかけるようになる。

一億人、誰も彼もがメディアになって参加する時代。誰もが自分の話を、自分の創作物を発進したいと思っていて、誰かに相手にされたい、評価してほしいと思う時代。そして、アクセス数やフォロワー数やスターやいいねの数が常に数値化されて順位付けされて、誰もが「もっと評価されなきゃ」と、なんか急き立てられているような時代。

そうなると、既存のメディアはどうしたって割を食う。テレビも見られなくなるし、ラジオは聴かれなくなるし、雑誌は売れなくなると思う。現に、僕がこうやってブログにただただ文章を流し込んでいる時間も、奇特にもこんな文章を読んでくださっている貴方*3が今消費している時間も、約15年前ならまず存在し得なかった時間で、きっとその時間がテレビや雑誌の消費に役立てられていたはずの時間だ。

それでもバランスよく世界が回ればいいけど、今は多くの人が昔と逆で、アウトプットがインプットを上回りがちになっている。ゆえに、世界にあふれる表現の供給のほうが需要を追い越している。ネットを介して、オンライン上の無数の表現にもアクセスできるし、ネット越しに今までなら知ることの出来なかったような、遠くの魅力的なイベントやバンドのこともどんどん知ることができる。しかし、ひとりの人間が多少の余暇の時間に楽しめる量を遥かに超えすぎているし、さらにその余暇の時間に「自分も何かしたい」という欲望が食い込んでくる。

全ての人がメディアと化して、自分というメディアを生き残らせるために、結果的にどこかの誰かのメディアを犠牲にせざるをえないような時代。そんな時代だと思っている、今は。

そうなると、次にするべきことは、戦略だ。自分が生き残るために、もっと評価を獲得するために、もっと評価されたい、もっと目立ちたい、もっと話題になりたいと思う。ニュースをまとめるだけで人気サイトになるなら自分もやりたいって人が後を絶たないのも、自分で絵を書いたり曲を作るよりも人気ジャンルに二次創作でぶら下がったほうが圧倒的にアクセスが期待されるならそっちに行きたくなるのも、有名人にぶしつけに喧嘩を売るのも、有名人をやたらとヨイショしながらお近づきになりたくなるのも、冷蔵庫に入って写真を撮りたくなるのも、何も思いつかないならせめてセンセーショナルな嘘でもついて拡散希望してみるのも、全部その結果だと思う。誰もが誰もを喰い合う時代で、大人しくしていたら死ぬ。なら、喰われる前に喰う。根本にある気持ちは、多分そんな感じなんだと思う。*4

ちょっと足りなかった時代から、急に息苦しくなった現代へ。まだこの傾向はもうしばらく続くと思うし、きっと何年後かに何かをきっかけに変化はすると思うけど*5、どんな風になるかはまだ判らない。

そんな時代を生きてるんだろうなあと思うけど、そんな今「First Love」を久しぶりに聴いたら、あの頃とはまた違って聴けるかな。って思ったりする。

そんな話でした。*6

*1:個人の感想です

*2:この時、従来のように「あっちのサイトでは○○、こっちのサイトでは××、リアルの友達同士での掲示板は□□」といった、ジャンルごとに自分のIDやキャラクターを別々に管理することが難しくなったのが、それ以前と以後でネットの使い方が大きく変わった一因じゃないかと思っています

*3:ありがとうございます

*4:もちろん、個人的にはみっともないとも思ったりしますが、しかし自分だってそういう要素を少なからずブラ下げて生きてるんだとも思います。うーん

*5:それは、昔に今のような未来が待っているとは想像もできなかったのと同じで

*6:そして、多分このエントリをそのままロッキンオンとかに送ったら、2秒で捨てられるんだろうな。というオチ