特別な人/そうでない人

例えば、今あなたに、好きな人が居たり、あるいはパートナーが居たり、可愛がっているペットが居たり、すごく好きなアーティストやアイドルや作品なんかがあれば、話は早いと思うんですけど、あなたがそれらを「何よりも好き」であり、「他の何かと比べられないくらいに好き」であり「嫌いになれるわけがない」こと、その気持ちは嘘ではないと思う。

そして、その時に、あなたがそれらを「好き」である事、それらを全肯定する事に対して、他人の誰かが口を挟む必要や余地はないと思うし、ましてやそこに「理論的な正しさ」でもって口を挟んできて「あなたがそれを好きなのは間違っている」「こんなに良くない部分もあるのに、全肯定しているのはおかしいのではないか」と理由を並べてくる人が居たら、相手にしないで蹴っ飛ばしてやればいいと思っている。

 

早い話が、誰もが自分の中に持っている「私の一番大好きな人やモノ」は、ものすごく客観的に、ひたすら相対的な評価で見た時、「一番評価されるに値するだけの理由や価値のある人やモノ」では無いと思う。

誰もが人間界の一位や、アーティスト界の一位しか好きになってはいけない、それ以外は「理論的な正しさ」でもって「それを一番好きになるのは理論的におかしい」と否定されてたら、やってられないし、そもそも人類は成立しないし、私たちは生まれていない。

逆説的に言えば、誰もが「一位ではあるわけがない人やモノ」を「私の中の一位」にして、全肯定して好きになったりなられたりして生きているから、この地球は回っている。と思う。

 

ただし、それは、各々の中にある「特別に好きな人やモノ」の話。

逆に言えば、誰もがいくつかの「特別に好きな人やモノ」を持っていて、それらに対しては特別に全肯定しているけど、それら以外の大多数の「別に特別に好きではない人やモノ」に対しては、誰もが各自に持っている価値観の中で、それなりに良い悪いを判断して、自分の中でふるいに掛けて生きている。

だから、例えばAというモノに対して、Aが本当に大好きで、理屈抜きに全肯定している人が居ても間違っていないと思うし、別にAをそれほど好きでもなんでもない人が、自分の価値観やフィルターを通して、良い部分も悪い部分も見据えて、冷静に良かったり悪かったり批評をしていても(あるいは、特に表立って批評をしていなくても、そういう風に批評的にそれを見ていても)、それも間違っていないと思う。

そして、その時に両者が「これを全肯定しないなんておかしい」とか「これは、冷静にデータで観てみるとこんな部分やこんな問題もあるのに、それを観ないようにして肯定だけするなんておかしい」とか、それぞれに思うことはあったとしても、言いあわなくていいと思うし、お互いが不可侵の領域であることを受け入れて、尊重しあえればいいと思っている。

 

なので、自分が大好きな何かが、誰かにとっては「ちょっとなんでそんなに好きになれるのかわからない」何かでも、別にそんなにオカシイことではないし、誰かの大好きな何かが、自分にはちょっとそこまで魅力がわからないとしても、別にいいと思う。

勿論、自分は自分の出来る範囲で、自分の好きなモノの魅力を言葉にしたりして、まだそれが大好きでない人にも伝えたいと思うけど、そこに必ずしもの「これは誰もが絶対に大好きになるべきだ」的なところまでの気持ちや思い入れなくていいと思っている。そして逆に、誰かの好きなモノ語りにも、そういう気持ちで読ませてもらたtリ、話を聞かせてもらってたらいいと思っている。

自分にとっては全肯定するべき人やモノを、誰かが理論立てて「こういう良くない部分もある」と、良くないように言っていても、それで自分の気持ちは動かされなくていいと思うし、かといってそれを言っている人を「ひどい人だ」「考えを変えさせないと」とも思わない。その人にとっては、その人やモノは特別なものでないなら、理論的に批判するのもまた当然だと思うからだ。

 

なんとなくそんなコトを思う、今日このごろです。