又吉直樹「火花」

僕はピースについて殆どよく知らないし、ピースの又吉さんは割と沢山の本を出されていることは知りつつ、他の著書についても殆ど読んだこともない(唯一読んでるのが「カキフライが~」くらいだ)。あと文芸誌とかも普段まず読まないし、そもそも「純文学」っていう定義も未だにそんなによく判っていない。

なので、一部で話題になってる「文學界」にピースの又吉直樹さんが「火花」って小説が掲載された、ってニュースを最初に見た時もそこまで興味は強くなかったし、たまたま本屋に行った時に再販分が残っていたので「これって今買っておかないと後から読みたくなっても買えないんだろうな」って思ってとりあえず買ったような、そんな、かなり薄めの興味から本を手にとってしまった。

で、読んだら、超面白かった。

面白かったというか、とにかく終始惹きつけられっぱなしで、読み終わったらすぐに「いや、すごすぎる、誰かに伝えたすぎる!」って思うくらいに、面白かった。

なので、今回のエントリは、そんなに予備知識も愛情も深くない立場の人が同作品の感想というか、とにかくこれ面白いですよ!みたいな話をする、そんな感じです。

極力、物語の核心に触れる部分や、その周辺のネタバレについては避けていきますが、出来れば未読の人は先に読んでいただいた方がいいです。

 

 

物語は終始、漫才コンビ「スパークス」の徳永というデビューして間もない若手の芸人を軸としながら、その先輩であり、徳永が師と仰ぐことにした漫才コンビ「あほんだら」の神谷という芸人との会話や、二人の間にある微妙な関係性などの変化を描きながら進行していく。

主人公の徳永は自分が漫才師であること、あり続けることに高い理想は持っているが、その理想のハードルを自分で飛び越えて世間で輝けるほどに自分が(自分たちが)天才でも奇才でも無いことも知ってしまっている。でも、その中で世間が見せる現実と、自分の理想とも戦いながら、自分の力で世界との折り合いを付けられる場所を求めて、面白いことをやり続けようとしている、そんなタイプの人間。だと感じた。

対して、その徳永が憧れる神谷は徹底して「非凡の人」として描かれている。自分だけを信じて自分が面白いと思うことを全力で出来る、そこに何の衒いも禁忌も挟まない人。だからこそ徳永は神谷に憧れるし、神谷のようになりたい、認められたいと何度も思いながら、「なりたい」という欲望からは凡人が非凡の人になれる道へは用意されていないことを知る、自分は自分にしかなれない自分と葛藤する。

途中で一度だけ出てくる、「笑えや。」という心情が、読んでいる中で一番痛かった。

 

そして二人とも、恐ろしく人間が綺麗で、嘘のない言葉を交わし合う。徳永は神谷を本気で崇拝しているからこそ徳永の中に自分が認められないものがあることを隠さないし、神谷は徳永を本気で認めているからこそ、徳永を甘やかす意味で認めようとはしない。 

 

 

物語の終盤近くまでの大半は、徳永と神谷の会話で進行していく。二人はお笑いについて様々な話をする。

平凡でも技術に長けた笑いと、拙くても非凡で新しい笑い。それぞれに違う良さを持つものを、どういう基準で見ればいいのか。

少数の人達が始める奇抜な流行が生まれた時、それはいつまで「奇抜な」ものなのか。

個性とは。芸人が「キャラ」を持つ意味について。

お笑いライブにおける「ファン投票」。

ネットで悪口をいう誰か。

笑われたらあかん、笑わさなあかん。という言葉。

などなど、挙げだすとキリがないけど、様々なテーマで二人は、安い飲み屋で酔いながら、転がり込んだ女性の部屋で鍋をつつきながら、河川敷で安い惣菜をつまみながら、ひたすら会話する。

それらの会話の全てにおいて、徳永が神谷から聞きたいテーマは、自分もお笑いが好きでいる日々の中で誰かに聞いてみたい、誰かと話してみたいことだったし、神谷が徳永に返す言葉は「自分も誰かとこういう話をして、こういう風に返してもらいたかった」と思っていたような内容の、更に上の上を返してくる内容だった。

神谷はただの非凡な天才で、孤高で破滅型の人であるようにも描かれていない。徳永が神谷に憧れ、誰にも理解されない自分をそれによって肯定しようとする時、神谷は更にその少し上を行く視点と行動を提示してくる。(そして徳永はまた自分に打ちのめされる。)

それらのやりとりの全てがあまりに生々しく、ほとんど自分は徳永と同化するような視点で読み進めて、徳永が投げかける質問やその感想に(自分もそう思う、という意味で)頷きながら、神谷の言葉で「これヤバいな」と思う部分には付箋を貼る、という作業を延々と繰り返した。

もはや、その時にはこれは一人の実在する芸人が創作した小説であるというのをすっかり忘れて、そういうドキュメントを覗き見しているような、そんな感覚にとらわれていた。それくらい生々しく、嘘がなく、同じ理想を持ちつつも、全く違う資質を持って生まれた二人の人間が、同じ酒を飲み、同じ道を「今は寄り添って」歩いている、という記録を覗き見して追体験しているような、そんな臨場感があった。

  

 

物語は終盤近くで、徳永と神谷の会話という軸から離れてクライマックスへと向かっていく。

個人的にはこの終盤の流れまで読み進めた時に「あ、そうだ、これって芸人さんが書いた小説だったんだ、それを今読んでるんだった」と思い出す勢いで現実に引き戻されるような感覚になった。というのは別に悪い意味ではなくて、終盤までは徳永と神谷という二人の独立した人間が実在しているかのような会話の記録だったのが、終盤へ来て明らかに書き手の「お笑い」全般に対する愛情が溢れだしていて、徳永や神谷への視点に同化するより、そっちの方に圧倒的に強く飲み込まれる。いわば、徳永も神谷も最初から書き手である又吉さん自身の化身ではあったのだが、それよりも徳永と神谷という、書き手に与えられた個性が圧倒的に勝っていたのが、終盤へ来て二人ともがそれぞれに「又吉直樹の化身」という感じが強くなって、読み手に真正面からお笑いに対する愛をぶちまけまくっていく。そんな感じになっていくし、最後のシーンは明らかに小説家の人の締め方ではなくて、お笑いの人が書いた小説ですよっ、って締め方を意識したような、美しくもイビツで、おかしな余韻を残す締め方になっている(これも別に悪い意味ではなくて!)。

 

芸人さんが書いた小説でテーマが芸人もの、となると、もっと「業界の裏側」的な部分、小説というフィクションにして語られる、何かの現実の暗喩のようなエピソードや、あるいは芸人のサクセスストーリーものや、現役の芸人さんだからこそ書けないような細部の話などを期待していたフシは、正直言って大いにあった。

けれど、この作品はそういうのとは少し違ったけど、それとは違う意味でもっと強い何かが自分の中に残ったし、自分の中でモヤモヤしていたもの、誰かと答え合わせをしてみたかったものに一気に赤ペンを入れられて整理されていったような、そんな悪くない読後感が強くある。

そして何より、お笑いが好きな人、好きな芸人さんがいる人、好きな芸人さんを追って劇場やテレビ番組や賞レースの予選を追って一喜一憂する楽しみを知っている人、自分が好きな芸人さん、自分が「絶対に正しい」と思う笑いをやっている芸人さんが世間に受け入れられる瞬間の喜びや、なかなか受け入れられない悔しさを知っている人、自分でも偉そうな、思い上がった視点かもしれないとは思いつつも、お笑いについて「正しい」「正しくない」を考えてしまう人、そして自分も人を笑わせたいと思っている人、自分の才能の足りなさを知っている人、自分が一生かけても追いつけないと思う圧倒的な才能の持ち主を知っている人、そして世間には認められないまま芸人としては大成しなかったけど、今でもどこかできっとメチャクチャ面白いまま生きているだろう誰かがいた事を自分だけは知っている、と思っている人。

そういう人が読むと、きっと心の中の何かが整理されるし、きっと最後にはめちゃくちゃ優しく自分とお笑いと自分が好きな何かを肯定されるような、そんな感じが残ると思うので。ホントにお勧めです。っていう、そんな作品でした。

 

 

 

火花

火花