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爆笑問題『天下御免の向こう見ず』という教科書

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - Yahoo!ニュース

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - Yahoo!ニュース

 

ちょっと遅い話題だけど。ネットのあちこちで既にそこそこの話題になってるし、色んな声が出てるなあと思いつつ、個人的には読んでいて、なんとも言い切れない感じになった。

確かに、出だしから一気に惹きつけられる、独特の力がある文章だと思うし、共感ができないわけではないし、むしろ被告の人の文章から伺える人生観や圧倒的な視野の狭さ、それを育むに至った社会への視点は、それに近いものは自分の中にもあると思った。言ってしまえば、「自分も大して変わらないのかもしれない」とも思った。

だけども、読み進めるに従って少しずつ、どうしようもない違和感も拭えなくなった。どこまで行っても自分の事しか出てこない話。今回の一連の騒動で大きな迷惑を被った「黒子のバスケ」作者の藤巻氏や出版や書店の関係者、及びファンの人達に「悪いことをした」という気持ちのひとつもなく、また非常に冷静に自分の事を分析してみせて自分はいかに無価値な人間であるかを自覚している、悟っているようでありつつ、結局は自分を社会の「負け組」人間の代表であるように語り、特例で死刑になりたいだの、自分が起こした事件を『日本の出版の歴史に残る事件』だの『この事件の判決を「国策判決」として利用して頂きたい』だのと、結局は何か自分が生きた証を社会に残したい、自分にはその程度の価値があるというような、隠し切れない自己愛とか自己憐憫とか自己顕示欲が溢れだしているようにも感じられ、後半はちょっと気持ち悪くて読みきれなかった。

 

個人的にこの文章を読んだ後で、すぐに頭をよぎったのは、10代の頃に何度も読んだ、爆笑問題の『天下御免の向こう見ず』という本の中の、あるコラムだった。

(略)…誰でも、社会に自分の存在を認めて欲しい。何かで自分を表現したい。私は、人一倍その願望が強かった。現在こうして、文章などで自分の思っていることを表現できる立場になるまでには、社会に対して対等でいられるための正当な手続きを踏んできた、という自負がある。そうでなければ、表現など無意味だ。

簡単に社会に自分の存在を訴える方法など、いくらでもある。社会の外に出て、特殊な犯罪を犯せばいいのだ。でも、それを誰しもがやらないのは、善悪以前に、それが、挑戦者としてあまりにもレベルが低く、安易で、とるに足らないからだ。それは注目させるためだけの表現で、その先に中身が何もないことは、ものを表現する苦しみを知っている人なら誰でもすぐ解る。順序が逆である。訴えるべき事が先になければ、注目されても、何も伝えられない。

チャップリンの「ライムライト」の中にこんなセリフがある。

「薔薇は美しくあるために咲くのではない。ただ咲きたいがために咲いているのだ。だからこそ美しいのだ。」

注目されたいがために咲いた薔薇は、美しくも何ともない。

 

爆笑問題『天下御免の向こう見ず』、コラム「薔薇」より引用)

この文章は今回に限らず、自分の人生の中で何度も大事な時に思い出されて、自分の選択を間違えないように助けてくれている。と思うし、今回も「そういう事だよな」と思った。

爆笑問題はいつも正しい。自分は早い段階で偶然にも爆笑問題に出会っていたから、どうにか道を踏み外さないで生きてこられてるんだな、とも思った。本当に。

 

ダメなことはダメです。言い訳してもダメだし、開き直ってもダメです。いかにも社会のせいみたいにしてもダメです。ましてや、いい大人がしたら絶対ダメです。

そして、そんなダメな人を担ぎあげて自分や自分たちの運動を正当化するのも、やっぱりダメです。

自分はこの被告の人や、この文章を紹介している人と、持っている考え方や社会へのスタンスはむしろ近いんだろうと思うけど、それだけに、「こんな奴に自分の気持ちを代弁して欲しくないし、自分までこんな風に思ってるって思われたくない」って思った。こんなのを叩き台にして、いまの社会や若者像を語られてたら本当にたまらない。ふざけんな☆

そんな感じです。