読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

又吉直樹「火花」

僕はピースについて殆どよく知らないし、ピースの又吉さんは割と沢山の本を出されていることは知りつつ、他の著書についても殆ど読んだこともない(唯一読んでるのが「カキフライが~」くらいだ)。あと文芸誌とかも普段まず読まないし、そもそも「純文学」っていう定義も未だにそんなによく判っていない。

なので、一部で話題になってる「文學界」にピースの又吉直樹さんが「火花」って小説が掲載された、ってニュースを最初に見た時もそこまで興味は強くなかったし、たまたま本屋に行った時に再販分が残っていたので「これって今買っておかないと後から読みたくなっても買えないんだろうな」って思ってとりあえず買ったような、そんな、かなり薄めの興味から本を手にとってしまった。

で、読んだら、超面白かった。

面白かったというか、とにかく終始惹きつけられっぱなしで、読み終わったらすぐに「いや、すごすぎる、誰かに伝えたすぎる!」って思うくらいに、面白かった。

なので、今回のエントリは、そんなに予備知識も愛情も深くない立場の人が同作品の感想というか、とにかくこれ面白いですよ!みたいな話をする、そんな感じです。

極力、物語の核心に触れる部分や、その周辺のネタバレについては避けていきますが、出来れば未読の人は先に読んでいただいた方がいいです。

 

 

物語は終始、漫才コンビ「スパークス」の徳永というデビューして間もない若手の芸人を軸としながら、その先輩であり、徳永が師と仰ぐことにした漫才コンビ「あほんだら」の神谷という芸人との会話や、二人の間にある微妙な関係性などの変化を描きながら進行していく。

主人公の徳永は自分が漫才師であること、あり続けることに高い理想は持っているが、その理想のハードルを自分で飛び越えて世間で輝けるほどに自分が(自分たちが)天才でも奇才でも無いことも知ってしまっている。でも、その中で世間が見せる現実と、自分の理想とも戦いながら、自分の力で世界との折り合いを付けられる場所を求めて、面白いことをやり続けようとしている、そんなタイプの人間。だと感じた。

対して、その徳永が憧れる神谷は徹底して「非凡の人」として描かれている。自分だけを信じて自分が面白いと思うことを全力で出来る、そこに何の衒いも禁忌も挟まない人。だからこそ徳永は神谷に憧れるし、神谷のようになりたい、認められたいと何度も思いながら、「なりたい」という欲望からは凡人が非凡の人になれる道へは用意されていないことを知る、自分は自分にしかなれない自分と葛藤する。

途中で一度だけ出てくる、「笑えや。」という心情が、読んでいる中で一番痛かった。

 

そして二人とも、恐ろしく人間が綺麗で、嘘のない言葉を交わし合う。徳永は神谷を本気で崇拝しているからこそ徳永の中に自分が認められないものがあることを隠さないし、神谷は徳永を本気で認めているからこそ、徳永を甘やかす意味で認めようとはしない。 

 

 

物語の終盤近くまでの大半は、徳永と神谷の会話で進行していく。二人はお笑いについて様々な話をする。

平凡でも技術に長けた笑いと、拙くても非凡で新しい笑い。それぞれに違う良さを持つものを、どういう基準で見ればいいのか。

少数の人達が始める奇抜な流行が生まれた時、それはいつまで「奇抜な」ものなのか。

個性とは。芸人が「キャラ」を持つ意味について。

お笑いライブにおける「ファン投票」。

ネットで悪口をいう誰か。

笑われたらあかん、笑わさなあかん。という言葉。

などなど、挙げだすとキリがないけど、様々なテーマで二人は、安い飲み屋で酔いながら、転がり込んだ女性の部屋で鍋をつつきながら、河川敷で安い惣菜をつまみながら、ひたすら会話する。

それらの会話の全てにおいて、徳永が神谷から聞きたいテーマは、自分もお笑いが好きでいる日々の中で誰かに聞いてみたい、誰かと話してみたいことだったし、神谷が徳永に返す言葉は「自分も誰かとこういう話をして、こういう風に返してもらいたかった」と思っていたような内容の、更に上の上を返してくる内容だった。

神谷はただの非凡な天才で、孤高で破滅型の人であるようにも描かれていない。徳永が神谷に憧れ、誰にも理解されない自分をそれによって肯定しようとする時、神谷は更にその少し上を行く視点と行動を提示してくる。(そして徳永はまた自分に打ちのめされる。)

それらのやりとりの全てがあまりに生々しく、ほとんど自分は徳永と同化するような視点で読み進めて、徳永が投げかける質問やその感想に(自分もそう思う、という意味で)頷きながら、神谷の言葉で「これヤバいな」と思う部分には付箋を貼る、という作業を延々と繰り返した。

もはや、その時にはこれは一人の実在する芸人が創作した小説であるというのをすっかり忘れて、そういうドキュメントを覗き見しているような、そんな感覚にとらわれていた。それくらい生々しく、嘘がなく、同じ理想を持ちつつも、全く違う資質を持って生まれた二人の人間が、同じ酒を飲み、同じ道を「今は寄り添って」歩いている、という記録を覗き見して追体験しているような、そんな臨場感があった。

  

 

物語は終盤近くで、徳永と神谷の会話という軸から離れてクライマックスへと向かっていく。

個人的にはこの終盤の流れまで読み進めた時に「あ、そうだ、これって芸人さんが書いた小説だったんだ、それを今読んでるんだった」と思い出す勢いで現実に引き戻されるような感覚になった。というのは別に悪い意味ではなくて、終盤までは徳永と神谷という二人の独立した人間が実在しているかのような会話の記録だったのが、終盤へ来て明らかに書き手の「お笑い」全般に対する愛情が溢れだしていて、徳永や神谷への視点に同化するより、そっちの方に圧倒的に強く飲み込まれる。いわば、徳永も神谷も最初から書き手である又吉さん自身の化身ではあったのだが、それよりも徳永と神谷という、書き手に与えられた個性が圧倒的に勝っていたのが、終盤へ来て二人ともがそれぞれに「又吉直樹の化身」という感じが強くなって、読み手に真正面からお笑いに対する愛をぶちまけまくっていく。そんな感じになっていくし、最後のシーンは明らかに小説家の人の締め方ではなくて、お笑いの人が書いた小説ですよっ、って締め方を意識したような、美しくもイビツで、おかしな余韻を残す締め方になっている(これも別に悪い意味ではなくて!)。

 

芸人さんが書いた小説でテーマが芸人もの、となると、もっと「業界の裏側」的な部分、小説というフィクションにして語られる、何かの現実の暗喩のようなエピソードや、あるいは芸人のサクセスストーリーものや、現役の芸人さんだからこそ書けないような細部の話などを期待していたフシは、正直言って大いにあった。

けれど、この作品はそういうのとは少し違ったけど、それとは違う意味でもっと強い何かが自分の中に残ったし、自分の中でモヤモヤしていたもの、誰かと答え合わせをしてみたかったものに一気に赤ペンを入れられて整理されていったような、そんな悪くない読後感が強くある。

そして何より、お笑いが好きな人、好きな芸人さんがいる人、好きな芸人さんを追って劇場やテレビ番組や賞レースの予選を追って一喜一憂する楽しみを知っている人、自分が好きな芸人さん、自分が「絶対に正しい」と思う笑いをやっている芸人さんが世間に受け入れられる瞬間の喜びや、なかなか受け入れられない悔しさを知っている人、自分でも偉そうな、思い上がった視点かもしれないとは思いつつも、お笑いについて「正しい」「正しくない」を考えてしまう人、そして自分も人を笑わせたいと思っている人、自分の才能の足りなさを知っている人、自分が一生かけても追いつけないと思う圧倒的な才能の持ち主を知っている人、そして世間には認められないまま芸人としては大成しなかったけど、今でもどこかできっとメチャクチャ面白いまま生きているだろう誰かがいた事を自分だけは知っている、と思っている人。

そういう人が読むと、きっと心の中の何かが整理されるし、きっと最後にはめちゃくちゃ優しく自分とお笑いと自分が好きな何かを肯定されるような、そんな感じが残ると思うので。ホントにお勧めです。っていう、そんな作品でした。

 

 

 

火花

火花

 

 

日記をつけるようになった話

年末に書くような(年始から読んでもらうような)話ではないんですが。

 

全くの私事なんですが、半年くらい前から(ブログとは別で、ごく個人的な)日記をつけるようになりました。

そんなに大した内容ではないものの、1日に数行、今日は何をして、何を思って、今後に向けてどんな予定が増えたか、その程度を忘れないようにEvernoteに「日記」ってノートブックを作って、日付をタイトルにして、1日1ノートで記録していく。そんな感じで。

 

逆に言えば、自分は今まで日記というものを特につけていませんでした。

それは、このブログを持つ以前にも何度かブログを始めようとしては何も書けなかった、全然続かなかったのと同じ理由で、「自分には書くような、報告するような日常がない」と思って生きていたフシがあって。

朝起きて、会社に行って、帰りにゲームセンターで音ゲーをして、帰ってテレビを観るかラジオを聴くかして、寝る。

特に週末や休日に一緒に遊びに行くような人も居ないし、誰かと繋がりたい時はもっぱらネットの上の見知らぬ人と。

完全に、その繰り返しで生きている自分には、特に日記に残すような話もないし、ましてや誰かに「今日はこんな事があって~」と伝えるようなコトも、何もない。

そんな風に思い、特に日記やブログを持たずに生きている感じでした。けっこうな長い間。

 

「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいいの。私は、私が嫌い。」

今年の夏のスタジオジブリの映画「思い出のマーニー」の冒頭で、主人公の言葉でつぶやかれる一節ですが、自分はこの感覚を「わかる」と思いながら観ていました。

基本的にこの世界は「輪の内側」の人達のために作られている。でも、とうの昔に落ちこぼれた自分は、輪の外側の人間。輪の内側の人達は、この世界で色んな場所に行って、色んな人達と色んなコトをして、色んな経験をして、社会を循環させていくだろう。でも、そういうコトとは自分には縁はないだろう。輪の外側に居るから。

そして、それは自分が自分の責任で外側に落ちただけで、今までに自分が内側にいるだけの義務や努力を果たしていなかったから、結果として今は外側にいるだけで、それを棚に上げて内側にいる人達を羨んだり、逆恨みするようなことは、してはいけない。悪いなら自分だし、そうした自分を自分で嫌っておくか、あるいは何も期待しないで、ずっとただ生きていけばいい。

そんな意識を自分は、内側に強く持っていたように思います。けっこうな長い間。

そして、その種の、要は自分の内側でナチュラルに持っていた劣等感や疎外感のようなものは、シンプルに学校社会の中でもはぐれモノだった10代の頃は割とドライな、そんな苦でもないようなものだったはずが、自分がいつしか学生じゃなくなって、社会に出て、やがてアラサーになり、30を超えて、いい年になればなるほど自分の内側で大きく、重くなり、自分を圧迫していたように思います。

その感覚に対して、たまに「つらい」と思うこともあるけど、でも今更どうしようもない感じ。今更どこからどう手を付けていいかもわからないし、見当もつかない。ただ実体の見えない不安や「自分は社会に対して間違っている」という感覚。そういう感覚が、いわゆる「自分に自信がない」という自分、揺るぎない自己肯定感の低さを形成している感じ。 

 

そんな自分なんですが、色んな巡り合わせで1~2年前くらいから、会社と家との往復とは別に、趣味の音ゲーやお笑いの世界でネットで繋がっていた人を介して、色々と人前に出たり、人と会ったり、誰かと共同でイベントなどの準備とかをする機会が少しずつ多くなりました。

自分は、その時々で、色んなタイプの良い人に巡りあわせられる運だけは人並み外れた量、相当に持っている、と思っています。

最初は月に1回あるかないか程度だった、最初は誰かが開くイベントにいち参加者として紛れ込んでいるだけだった自分が、徐々に回数が増え、気づいたら今年くらいからはもう、月に2~3回は普通にあるようになり、ほぼ毎週何かしらあるようになり、逆に準備する方になったり、準備してる人達に参加しないかと呼んでいただけるようになったりして。

そのうち本当に頭のなかで覚えているだけでは管理しきれなくなり、日記をつけ、スケジュールを書くようにして日程をダブらせないようにして、約束したことを忘れないようにして、何を話し合ったのか書きとめていくようにしないと覚えてられなくなり。

それが自分が日記をつけるようになった、一番の理由だったりする。

 

 

大晦日になって今、夏頃からつけだした日記を読み返していると、単純に自分がやたらめったらに迷走した記録、色んな人に会って色んなコトをして、色んな経験をして、たいがい失敗して、凹んで、めちゃくちゃネガティブになったりもするけど、色んな人から色んなアドバイスを受けて、解決する糸口を見つけてなんとかリカバリーして、また色んなコトをする、っていう日々を自分がなんとかやって来たことに気づいたりした。出来てるじゃないか、いつの間にか。って思った。自分は出来ないと思っていた、そういうコトが。というような。

あまり詳らかには書くことじゃないけど、きっと自分は今回の人生でこんな事はしないんだろうなと思うような事をしたり、場所に行ったり、買い物をしたりして、その度に自分の中にあった「きっと自分はこういうことは死ぬまで出来ないだろう、普通の人はごく普通にできるんだけど」という感覚が解けていく、軽くなっていく、そんな日々の連続でした、なんか今年は。

 

 

とはいえ、別にそこまで劇的に日常が変化したわけでもないし、別に今では友達も多くなって毎日がイベントフルで楽しいです!ってわけでも全然ない。今でも全然冴えない日常を送っている、という感じはあるけど。

でも、前と違って、毎日の中でたまに、急に「ちょっと飲みに行こう」って連絡が来たり、逆に誰か誘って遊びに行ける程度には、自分の周りには人が居る、っていう感覚、それがあるだけで、自分の中にある重かった感覚がだいぶ軽くなったのを感じている。

まだまだ自分にとっての課題は多いし、劣等感も全然あるし、どうにかしないと苦しい、つらいって気持ちは消えてはいないけど、そこに対しての「どうしたらいいかわからないけど、どうにかしたい」「そして、きっとそれは死ぬまでどうにもならない」っていう気持ちの部分が、抜けていったのを感じている。ずっと底を打って這っていた心のグラフが、やっと少し右上がりに動き出した、そこに多少の希望を感じられているような、そんな感じ*1

 

ただ、今の自分は今の自分で間違っていないし、(自分としては、きっと)いい方向に向かっているとは思うけど、でも今の自分が人に何かしら必要とされている理由があるとするなら、それは自分がひとりで「輪の外側」で、なんかわけのわからない劣等感や自己肯定感の低さを持ちながら社会にギリギリで接していた時に作っていた価値観や自我があって、それを面白がられているというか、それがあるから自分は今、何かしらで人から呼ばれているんだとも思う。そして何より、どのみち自分は一生この感覚から、この先、多少は軽くなっていくとしても、完全に逃れられることもないだろうと思っている。

なので、そういう底の状態に居るような、劣等感を貯めこんで過ごすような状態の日々も否定したくないし(また戻るかもしれないし)、その時にしか出来ないような自我の形成、モノの見方や世界への感覚を大事にしておくことも、絶対に悪いことではないと思っている。

自分の中の暗い部分は暗い部分で肯定したまま、それだけじゃないように在ろうと思っているし、どうしても自分から見て同じ種の暗さを宿している人を見るとすごく惹かれるものもありつつ、自分にはない種の明るさを持つ人にも憧れる、そんな感じで過ごしていけたらと思う、そんな感じです。

 

何はともあれ、2014年は本っっ当に色んな方にお世話になりました。

来年もひとつよろしくお願いします!。

*1:もっと言うと、本当に恥ずかしい表現になるけど、自分は今から、本当は10代の頃に済ませてないといけないような、思春期~青年期のようなライフイベントを全部遅れて履修して、今からクリアしていこうとしてるんだろうな、と思ってる。現実的に出来るのかどうかは、ともかく。

さと「フラグタイム」/他人に必要とされたいくせに、うまくいかない人に。

最近読んだマンガの中で、少し前に完結巻になる2巻が出た、さとさんの「フラグタイム」がメチャクチャ面白くて、思ってた以上にグッと来てしまいました。とにかく、すごく良かった。

ホントにすごくいいと思ったので、宣伝がてら紹介するようなエントリを書きたいと思ったんですが、極力、話の中身には触れないように書きたいので(なんせ今回は本当に「この作品を語りたい」よりも「とにかく買われて読まれて欲しい」という気持ちの方が強いので!!!)、基本的に話の内容については相当にボヤかして書く、ある意味で要領を得ないエントリになると思います、ご了承いただければ。

 

この作品のものすごくザックリしたあらすじを自分が説明すると、こんな感じです。

主人公は「人と関わることで自分が何かしら傷つくことが嫌になり、今では誰とも関わらず、友達も作らずに(作れずに)、自分だけの世界を生きている女の子」の森谷美鈴(以下、森谷さん)と、もう一人の主人公的な存在の「誰からも好かれているクラスの中心的存在の美人で、でも本心では何を考えているのか判らない、ミステリアスな面もある女の子」の村上遥(以下、村上さん)。ふたりはある出来事をきっかけに距離を縮め、やがて村上さんの提案で「付き合う」ことになる。

『特に取り柄のない、自己評価も低いダメな主人公が、いきなり自分の住む世界の中でトップクラスの存在に気に入られ、一緒に行動することになり、主人公が成長して、見る世界が変化していく』という道筋を辿っていくお話は割とありふれており、このマンガも(実際には「森谷さんは時間を止められる」「その時、村上さんだけにはその能力が通用しない」という特殊な設定がある以外は)割とスタンダードな筋を辿るお話であるように思われます。

ただ、このマンガは、けしてそのパターンの「森谷さんが村上さんに影響され、過去の自分を脱ぎ捨てて成長していく物語」ではないように自分は感じました。物語は進むにつれ、「森谷さんの対人恐怖がほんの少しずつ克服されていく」ところから「そもそも、村上さんは何故ここまで誰からも好かれようとするのか」にテーマが移り、最終的にふたりは強く衝突し、互いに今まで言えなかった本音をぶつけ合います*1。森谷さんは村上さんの誰からも好かれようとして生きる姿勢を、村上さんは森谷さんの誰とも関わらずに自分だけで生きようとする姿勢を、互いにエグいほど、本当に読んでいて心が痛くなるほど直球の言葉で表現して「逃げている」と批判し合います。

でも、その喧嘩の最後に森谷さんは言います。「好きだよ」と。

そして、その無条件の「好きだよ」を機に、今度は、森谷さんは村上さんが持つ、自分には出来なかった、他人のために、自分が住む世界のために努力を惜しまない姿勢を、村上さんは森谷さんが持つ、他人から好かれるかどうかに拠らないで行動できる生き方を認め合っていくことになり、エンディングへと向かっていきます。

 

個人的に『特に取り柄のない、自己評価も低いダメな主人公が、いきなり自分の住む世界の中でトップクラスの存在に気に入られ、一緒に行動することになり、主人公が成長して、見る世界が変化していく』手の話はそこまで好きではなくて、そこには特に取り柄のない、自己評価も低いダメな主人公」に最初は共感していた自分が、最終的には物語の主人公だけが立派に成長して、自分の世界を変えていき、結局は読み手の自分は取り残されて、「自分も変化できないなら価値の無い存在のままだ」という暗に否定されたようなメッセージを送られた気持ちになり、なんか悲しくなる時があるからで。とはいえ、自分自身がそういうタイプの主人公にばかり共感してしまう性格で、それが問題なのも自覚しているゆえに、「ダメなタイプの人間が集まって、優秀なタイプの人間の揚げ足を取ってバカにして悦に入ってる」タイプの世界観のものも好きではなくて、自分でもややこしい性格だとは思っているのですが。

そういう意味で、この作品のラストでは「誰ともうまく関われないタイプ」の代表である森谷さんと、「誰とでもうまく関われるタイプ」の代表である村上さんが、互いに内面に持っている欠点の部分や汚い部分も晒け出される、かなり直球でキツい言葉で互いを責める形で表現されており、どちらのタイプに共感する読み手にしても痛い思いをすることになりつつも、その後で今度はどちらのタイプもが、それぞれにもっと深い内面に隠しているはずの寂しさや、「本当はもっと誰かに認められてもいいのに」と思っているはずの、汚くないはずの部分もすごくストレートでハッとする言葉で表現されていて、どちらのタイプに共感する読み手にも、それこそ人によっては強い癒やしや「許し」さえ受けるのではないか、と思います。その優しさ、けしてどちらかのタイプに立ち、どちらかのタイプの生き方を肯定する代わりにもう片方をないがしろにするのでなく、どちらのタイプも両価的に肯定しながら、最終的には必要な程度の変化を促していく描き方に、個人的にはめちゃくちゃグッと来てしまいました。

 

どうしても「時間停止能力」「女の子同士の恋愛」「パンツ」といった要素が前に出て語られがち、話題になりがちな作品ですが、少なくとも自分には本質はそっちよりも、今回のエントリで上げた部分にあるんじゃないかなあ、と思ったりしています。

そんなこんなで「フラグタイム」、「人と関わること」の何かしらで悩んでる人には、すごくオススメです!

 

フラグタイム(1) (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)
 

  

フラグタイム 2 (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

フラグタイム 2 (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

 

 

*1:余談ですが、この時の森谷さんの「すごい」「これが村上さんの」「本当の」「顔なんだ」「だめだ」「うれしい」って内面描写、めちゃくちゃ好きです。

10月のライブログ

やばい!今月なんもブログ更新していない!Σ(・w・;

だからというわけでもないのですが、今月からちょっと実験的に、自分がその月に観に行ったライブの感想みたいなのを(全部ではなくて、特に残したいのを)いくつか、エントリに残せたらいいな、って感じです。

 

・煌Jr. Live

10月10日(金)@5upよしもと

出演:アイロンヘッド(MC)、クラスメイト、えんぴつ消しゴム、コーンスターチ、天秤丸、ジョニーレオポン、イブンカ、蛙亭、シゲカズです、数学AB、サンドロップ

同日のタイタンシネマライブ(後述)前に、まだ時間があったので初めて行ってみた煌Jr.Live。

約1時間で10組のネタとトークが観られてすごく濃いけど、ネタ時間3分はやっぱり短いなあ、劇場ではもうちょっと長いめの観たいなあ、と思ったりもして。

個人的に蛙亭にめちゃくちゃ心惹かれました。正直、岩倉さんからずっと目が離せない。あの危うい落ち着かなさが、(すごい勝手に)他人事じゃなさすぎる感じがして。

というのと、漫才してる時の空気感も、漫才してない時の2人の距離感も、(あんまりいい言い方ではないかもしれないけど)本当は南海キャンディーズで見たかったけど見られなかったものを、もしかしたらこの人達はこれから見せてくれるのかもしれない、と思ってしまったりして、それがものすごく楽しみで。とにかく、出来るだけ観に行きたい、と思うコンビが自分の中で増えた。次の30分ライブ、観に行っておきたい。

 

爆笑問題withタイタンシネマライブ

10月10日(金)@TOHOシネマズなんば別館

出演:爆笑問題、宮地大介、瞬間メタル、ゆりありく、ウエストランド日本エレキテル連合、BOOMER&プリンプリン、パックンマックンさらば青春の光、母心、インスタントジョンソン東京ダイナマイト

これも初めて。

なんとなく「(安くない交通費と短くない移動時間をかけて、)映画館でライブの中継を観る」という行為に対する抵抗感、微妙に中途半端な感じが否めなくて、ずっと行ってなかったけど、結論から言うと「これからはできるだけ観に行こう!」と思わされる、すごくいい番組だった。

シンプルに全12組のネタを順番に見せて、長めのエンドトークがあって、それだけで2時間15分くらいの、ホントに無駄のない、なかなか大阪で観れないメンバーの、いいライブを見た感があった。

単純にネタ時間やネタの内容に制約がない感じ、かなり長めのサイズで、すごく自由なネタをどの組もやっていて、それを観られるだけでテレビのネタ番組とはまるで違う、ちゃんと劇場に足を運んだから見せてもらえるネタ、っていうお楽しみ感があるし、「映画館で中継を観る」っていうシステム自体も途中から殆ど忘れてるほど自然な感じで、普通にライブを楽しむように観られていた感じがします。

普段なかなか観られないウエストランド日本エレキテル連合の長めの本ネタが観られたのも良かったし(特にウエストランドの漫才が今回ヤバすぎるったらなかった!)、ゲスト組のネタも全部良かったし。そして最後の爆笑問題は格別だったし。最後の全組でのトークもなかなかヨソで見られないものだし。

本気で今まで来てなかったのを後悔しました。次回は12月19日。もう予定を開けておく所存。

 

・京都国際映画祭オープニングをRGがあるあるを言いながら見守る会

10月16日(木)@よしもと祇園花月

出演:レイザーラモンRGザ・プラン9浅越ゴエミサイルマン岩部彰

いったい京都のどこで誰が盛り上がって誰が得していたのか全然わからない、なんなら品川監督がちょっと凹んだだけなのではとの噂の(うそです!)4日間だった京都国際映画祭のオープニングイベント、と称して開催された本当の謎イベント。

会場に入るには謎の招待ハガキを貰ってないと入れないし、イベントの実態は「祇園花月の大きなスクリーンで『京都国際映画祭』の記念番組をお客さんと芸人さんで一緒に観る会(うわーこれは相当つまらない場所に来てしまった!と誰しもがきっと思った!)…と見せかけて、実際にはスクリーンで流れている番組は画面だけで音声は開始から10分位で早々に切られてしまい、そこから3時間くらいは(一応流しっぱなしの)京都国際映画祭の記念番組なんか放ったらかしでレイザーラモンRGがいつも通りにあるあるを歌い、浅越ゴエさんとミサイルマン岩部さん(=武将様)が相方としてそれをサポートする」という、「結局いつものやつかい!」という、ただただ楽しいだけの3時間強。

いかに今のレイザーラモンRGさん周辺が会社に信頼されているか、好き放題することを許されているかも伝わった感じがして、なんていうか、うん、会社サボって行ったかいがありました。(←

 

・love later

10月24日(金)@ZAZA HOUSE

出演:森澤匡晴(劇団スクエア)、鳥居みゆき、お~い!久馬(ザ・プラン9:脚本、演出、エンドトークのみ出演)

めっちゃくちゃ楽しみにしてたやつで、めっちゃくちゃ面白かったやつ。

久馬さんの脚本の世界を鳥居さんが演じる、っていうのが本当に楽しみにしてた以上にど真ん中にハマっていて、それを受ける男性役の森澤さんもすごく自然な感じで。

久馬さん独特の世界というか、結構シリアスな展開だけどいつでも小ボケが飛んでくる感じとか、最後にものすごくカタルシスのある何らかの「実はこういう意味でした~」的な何かが必ず仕掛けてあって、「あぁ…」って思いながら終わる感じとか。それでいて、最後はだいたい救いのない終わりじゃなくて、何かホッとするオチに行く感じとか。

そういうのがとにかく好きで、そういうのをすごくいい演者さんですごく楽しめたような舞台でした。空席があったのが本当に信じられなかった。もったいない。

 

THE MANZAI 2014 本戦サーキット

10月25日(土)@よしもと祇園花月

出演:あべこうじ(MC)、認定漫才師20組、武者武者(ゼロ組目)

これは別エントリで!(明日以降に!いつになったら書く時間が出来るのか!)

月夜の星空は

ナインティナインのオールナイトニッポン」が、今夜の放送をもって終了する。

 

自分がいわゆるヘビーリスナーだった時期はそんなに長くないし、そもそも現役で聴いていた時期を離れてからも久しくなる。中高生の頃こそタイマー付きのラジカセで120分テープに録音して、その日の朝に新聞配達しながら聴いて、次の木曜までにも2回3回と聴いていたけど、大学生になった頃から聴いたり聴かなかったりして、社会人になってラジコを使うようになってからは完全に「毎週とりあえず録音だけしておいて、聴ける時だけ聴く」みたいな距離感になっていた。正直に言えば、ここ数年はほとんど毎回積んでいて、ちゃんと聴いていたのはスペシャルウィークくらいだと思う。

そんな風に、もう長らくリアルタイムでは聴いていなかったけど、そんな自分とは全く関係なく、いつでも木曜日の夜にはナインティナインはラジオの前に居て、自分もそれを毎週とりあえず録音しておけば、いつでも聴きたい時に、その時々のナインティナインのラジオが聴ける。

そして、その関係は、きっと一生に近い長さで続いていく。

今週末でも、来年でも、5年後でも10年後でも、例えば自分の部屋でする事がない時、例えばひとりでちょっと旅行に出る時、当たり前のように自分のパソコンから録音を取り出せば、それをいつでも楽しめると思っていたし、いつでもそこには、変わることのないナインティナインのラジオが、自分の知らない芸能人の日常やテレビの裏話があって、岡村さんがボヤいて矢部氏が優しくたしなめて、いつ聴いても面白いネタハガキのコーナーがあって、それを楽しめると思っていた。

当たり前のように、そう思っていた。

特に、この数年には番組本が出る前後などの「来週は重大なお知らせが…」などとアナウンスされる時など、番組の存続も危ぶまれるような雰囲気を感じられた時もあったけど、それもつい先日の999回と1000回を乗り越えた時の放送の雰囲気で、なんとなく「あ、もう終わらないんだな」と勝手に感じ取ってしまい、安心してしまっていた。

その矢先の、終了の知らせだった。

放送終了が知らされた次の回から先週までの放送はさすがに自分も(リアルタイムだったり録音だったりしながらも)聴いたけど、そこには自分の記憶の中のラジオと比べても、いつも以上でも以下でもないラジオがあった。

当たり前だけど、20年も続けてきた、その中で爆発した回もあれば思うように行かなかった回もあっただろうし、淡々とこなした通常回もあったはずだ。ナインティナインがすごいのは、それを全部含めてずっと続けてきたこと自体であり、それを最後までやり通すところだと思う。ここへ来て最後の数回で特別なゲストを呼んだり奇抜な企画をするのでなく、今までの人脈とコーナーを振り返り、今までと同じ温度のフリートークだけで最終回に向かっていく。そんな感じが自分は心地よかったし、嬉しかった。

 

少し前に「笑っていいとも!」が終了する際にも、多くの人が同番組への思いや、「人気ある長寿番組が終了すること」についての自分の考えを寄せていた。

ただ、個人的には今回のそれは、「いいとも!」のそれとはまた違う意味を持っていると思っている。

「いいとも!」が平日の正午に常に当たり前のように存在し続けて、お茶の間をいつも同じように彩っている時、そこに視聴者とテレビの向こう側との間には、常に一定の距離感が存在していた。

タモリという人のパーソナリティや「いいとも!」という番組は、けして視聴者にぴったりと寄り添ったり、自分をフルに切り売りして魅力や人気を獲得していたのではなく、常に一定の距離感を置きながら、いつでも変わることのない正午のお茶の間のテレビ番組として機能し続けた。けして司会者やレギュラー出演者の人間的成長や変遷、番組としての進化、そういった長い時間軸から生まれるモノを売り物にした番組ではなかった(終了前の半年はそういう面もあったけど)。

対して、ナインティナインのオールナイトニッポンは、番組の歴史であると同時にナインティナインの人生の切り売りの歴史だったと思う。最初は若くて尖っていた二人は、テレビや芸能界の裏側をラジオに持ち込んで、リスナーを相手に生々しく語って愚痴をこぼして理想と現実に葛藤して、リスナーはそんなナインティナインの話を夜中にヘッドホン越しに一人の世界で共有することで、自分が体験できない芸能界や、芸人さんの世界を追体験したり、たまに出てくる「板東英二とモメた話」とか「KEIKOに裏でディスられた話」とか、誰かの内緒話に自分もコッソリと混ぜてもらってる感じが、少なくとも自分は毎週ホントに楽しみだったし、たまらなかった。

自分を含め、リスナーの大半はナインティナインの二人と面識があるわけでもないし、当然ながら友達と呼べるような関係ではないけれど、そうやって毎週二人の心の開ききったトークを聴き続けて、それをリスナーとして好意的に受け止め続けている以上、そこには親友や家族に対してと同じような意味での愛着、けして「正しさ」や「格好良さ」、「面白さ」だけで評価が変わるようなものではない関係が結ばれていたと思う。

そんな関係を結びながら放送を重ねて、二人も若くなくなってどんどん人間的にも丸くなって、一度は体壊したりもして、フリートークではたまにビックリするほどに世間と感覚のズレを見せるくらい「おじいちゃん」になっても、リスナーはその一連を共有してるからキライになんかなれない。そういう番組だったと思う。

 

昔のヒット曲を聴くと、人はその時代に生きていた記憶をセットで思い出すのと同じで、その時々のラジオの記憶はそのまま自分のその時期を生きていた記憶と直結している。

今、過去の録音を引っ張りだしたり、番組の公式本のCDで昔のトークを聴くと、そこには昔のナインティナインが居ると同時に、昔のその時代に生きていた自分の記憶も蘇るし、また逆に「そういえばこの頃、(番組内で)あんな事件があったな」「あんなコーナーが流行ってたな」くらいまで思い出されるほど、自分の記憶と、番組の記憶と、ナインティナインの記憶が縫い合わされている。


オールナイトの二人は(これは深夜ラジオのパーソナリティなら、そもそも大半がそうだけど)演出のない生身の二人組だったし、自分から見て心理的距離の近い、数少ない人間のうちの二人だった。自分は「めちゃイケ」のナインティナインも、「ぐるナイ」のナインティナインもそれほど好きではないのかもだけど、ラジオのナインティナインは好きだった。

そんな人達が、来週からはもう話を聞かせてくれないという。少し心理的にも遠い場所に行くことになりそうだ、という。今までよりは。

 

もちろん、既報の通り、番組自体は来週以降も岡村さんのみで実質の継続はするし、そもそも自分は最初にも書いた通り、今はさほど毎週の放送を楽しみをしている現役のリスナーでさえ無い。

そんな自分でも、これくらいの胸のザワつきと不安を覚えるのだから、番組をずっと楽しみにしていた人、今も毎週リアルタイムで楽しみにしている人の気持ちたるや、自分には想像もつかない。

数時間後には最終回が始まる。自分も今日はちょっと先に仮眠して、最後はリアルタイムで放送を聴いていたいと思う。

歌ネタ王決定戦2014

毎日放送で9月3日に放送された「歌ネタ王決定戦2014」の観覧に参加してきました。

こちらは全国放送の番組ではなく、TBSなどの関西圏以外での一部のテレビ局では後日遅れて放送される予定だということもあり、あまり詳細な内容を書き残すのもどうかと思いつつ、個人的には初めてのテレビ番組の観覧だったこともあり、いくらかの「テレビで見ているのと、スタジオで見ているのとの違い」を感じたこともあり、そういうのを残せればと思いまス。

というか、生放送が終わって、駅まで歩いて電車に乗って、まっ暗な道を自転車に乗って家まで帰ってきて、少し録画を確認とかして、もう終わってから3時間近く経っているのに、まだすごく興奮している。何か気持ちを整理しないと眠れそうにない。そんな感じです。

 

18時30分すこし前。茶屋町毎日放送前に到着。

ちょうど同時くらいで、今回の同行者(というか自分を誘っていただいた人)の若手さん(@wakate_)が到着。2人1組で受付を済ませ、整理番号付きのパスを渡されて局の中に案内される。

スタジオの前まで来たら大まかな番号ごとにブロックで分けて並び、ここでしばらく待機することになる。色々な雑談とかもしつつ、ちょっと待つのも疲れてきた頃にスタジオ移動が始まり、今度はきっちりと番号順でスタジオの中へ。

スタジオへのドアを一枚くぐると、そこには所狭しと色んな番組で使われると思われる色んな小道具や大道具がゴロゴロ転がった狭い通路があり、そこを抜けると一気に歌ネタ王のセットが組まれたスタジオの空間が視界に広がる。セットの前にはパイプ椅子が並べられており、入った順番でスタッフの人達に椅子に案内される。自分たちは前方ブロックの最後方中央、「いい場所ですね」なんて言いながら席につき、開始を待つ。

自分たちの座る位置から見て、目の前にはステージ。左右の真横には番組をモニターする用の画面があり、大きく現在の時刻も表示されている。そして真後ろには、カメラを挟んで審査員席がある。コロッケさんが、清水ミチコさんが、志村けんさんがそこに座る。

改めて今、自分はとんでもない場所に来ている、とんでもない経験をしていると思って、背筋を伸ばしたりする。

 

19時35分頃。急に数名の番組スタッフの方がステージに上がり、前説を始める。

「みなさん、盛り上がってますか~?」

パチパチパチパチ…(客席からまばらな拍手)

「ちょっと~!もっと盛り上がっていきましょう!声出していきましょう!」

…いや、まだ今の時点では盛り上がり始める要素に乏しくない?なんて思ったりもしつつ、そこは番組スタッフの流石に手慣れた感じで拍手・手拍子・声出しなどの練習や注意事項の説明が滞り無く進み、途中からは前説がおいでやす小田さん*1にチェンジして軽いネタの披露などもあり、一気に観覧客みんなが同じ「自分たちがこの番組を一緒に盛り上げるんだ」というモードにシフトが入り、グッとテンションが上がったのを感じられる空気感のまま、一気に放送開始へのカウントダウンが始まった。

 

19時56分。

放送開始直前に「まずVTRから入ります!」というスタッフの声があった通り、まず最初は審査員ひとりひとりの歴史を振り返るような、それと「歌ネタとは」を絡めるようなVTRが流れ、それに合わせて志村けんさんを筆頭に審査員の人たちが1人ずつステージに現れ、カメラの前で何かアクションを取ってみせて、ステージを下り、観覧席の間を歩いて、審査員席に向かっていく。さっきまでゆっくりと上がり続けていたスタジオ内のテンションが、さらに、急激に上がっていくのを感じる。

審査員先のスタンバイが終わり、VTRも終わった所で今度はステージ上の照明も一気に明るくなり、次は司会の小藪さん、フットボールアワーの後藤さんが目の前に現れる。思わず横のモニターを見る。目の前を見る。現実感がまだ無いけど、確かに今この番組は本当に始まって、テレビで流れていて、その映っている画面の、現場のその向こう側には自分が居る。というのを(何度目だって感じだけど)改めて実感する。

なんとなく呼ばれて来ちゃったけど、自分よりも今日の出場者の芸人さんや、審査員のレジェンドの人達や、司会の小藪さんや後藤さんに会いたかった人、ナマで見たかった人はもっと居たんじゃないだろうか。みたいなコトも、ほんの一瞬だけど逡巡する。だけど今更考えても仕方ないし、せめて、さっきまで手を叩くのも声を出すのも恥ずかしくて躊躇してたのを出来るだけ恥ずかしがらずに手を叩いて声出しとこう。みたいな気持ちに切り替える。

 

賞レース番組の割には短めの放送時間なのもあり、番組冒頭の小藪さんと後藤さんのトークも短く、審査員の紹介も短ければ今回のルールの紹介なども殆ど無く、あっという間に1組目の大福さんからネタが始まっていった。

 

ここからは、1組ずつ全ての芸人さんのネタに言及していくのではなく、個人的に感じたコト、気になったコト、帰宅してから録画で見返して思ったコトなどをいくつか記録していきます。

 

・スタジオで客席に居て感じられる客席のウケ方や笑いの量と、テレビ越しに伝わってくる笑いの量は意外と一致しない。客席の声は(前方以外は?)マイクでそこまで拾われていない的な事情なのかもしれないですが、録画で見ると(聴くと)笑い声が全体的にあまり大きくなかったように聴こえますが実際にはウケる部分はすごくウケてたし、例えば、テレビ越しにはほとんど客席の声は乗っていないように感じられた、手賀沼ジュンさんの2本目のネタでのコール&レスポンス(♪ダンカンだ、♪神田正輝~の部分)なんかは、実際には客席は完全に掴まれていた、かなりの大合唱だったように感じられました。

・テレビのように予めカメラの視点が決定されている画面で見るのでなく、自分で見る視点を選んで見るとなると、ネタ中でも、芸人さん以外にも色んな部分が気になって見てしまう。ネタ中の芸人さんを見ている司会席はどんな表情で見ているか、客席の反応はどうか、今モニターではどこが映しだされているのか、あと、自分の位置からは見えなかったけど審査員席はどんな感じで見ているのかも見たかった、など。個人的には、タブレット純さんのネタの時に後藤さんが相当ウケていた、机に伏せてしまうくらい笑ってたのが印象的で、どうしてもそっちを見てしまいがちでした。

・番組開始から途中までは、CM入り中は基本的に静かな時間、ステージ上では小籔さんと後藤さんは2人でマイクを通さずに何かを話しているか、スタッフと何かを打合せている、審査員席も基本的には一定の距離感のある、客席は静かにCMが明けるのを待つ状態が保たれていたものの、実際に放送を見ていた方ならご覧のとおりで、生放送中に芸人さんがネタで使うモニターが故障してしまいネタが出来ず、急遽ネタ順番を後回しにして、番組内容も一部変更して対応する、というかなりのアクシデントが発生した以降は、あちこちでスタッフが慌ただしく走り回り、「時間が足りない」「間に合わない」という声が聞こえ、どうやらモニターの復旧も難しそうな不穏な空気が流れる中、小藪さんと後藤さんがCM中でも色んな話を出してきて客席のテンションを落とさないように盛り上げ続け、そこに審査員席から阪神師匠やコロッケさんも乗っかってきて、とにかく全体で「このハプニングを楽しもう」という空気にしてしまっていたのが、すごく素敵で楽しかった。

・個人的に今日、突出して面白かったのはタブレット純さんと手賀沼ジュンさんだった。どちらも、「次はこういう風に笑わせに来るんだろうな」という予測ができて面白い部分(ひ弱な声・野太い声・艶のある歌声を使い分ける部分や、強引でシュールだけどよく出来た回文が出てくる部分)と、「まさかこういう風に来るとは想像できなかった」という予測を裏切って面白い部分(算数の問題とそのツッコミの面白さや、テクニカルかつ強引で超長文の回文のスゴさや大喜利的なキレと「笹さ」みたいなアホみたいな短い回文と「怪人、棒々鶏か」みたいな天丼で笑わせる回分がランダムに来る面白さ)の両方があって、見ていながら頭の中がどんどんかき回されていく、それが本当にすごかった。RG・椿鬼奴コンビやすち子&真也コンビの「大体どういうのが来るのか想像がついて、その通りに笑わせてくれる」っていう面白さの、ひとつ上を行っていた印象。

ただ、こういうのは本当に人それぞれの好き嫌いだと思うので、逆にRG・椿鬼奴コンビや、すち子&真也コンビが一番面白かったという人も絶対に少なくなかっただろうし、インスタントジョンソンも、もしネタの順番が違えば、もしモニターのトラブルが無ければ(モニターのトラブルが終盤2組の点数のインフレを呼んだ可能性は否定出来ない)、優勝していた可能性は全然あったと思います。審査員がもし違ったとしても、今回は割と演芸の王道を歩んできた人が多かったけど、これがもし顔ぶれが違えば、もう少し挑戦的な芸風で歩んできた人が多かったら、それも全然違う結果になっていたのかもしれない。

何にせよ、コントや漫才と比べて歌ネタは「この組はこの組より良かった」と思ったとしても、その理由を説明するにはホントに個人的な好き嫌いや価値観に拠らざるをえないなと思うし、歌ネタって評価をするという観点についてはホントに難しいなと思った。

・あと個人的にツボだったのが、ネタが終わって芸人さんが司会席に移動すると同時に毎回、一斉に4~5台のカメラとカメラマンさんが(司会席に写り込まないように)舞台にゾロゾロと上がってきて、審査員席をそれぞれ個別に抜くためにカメラを向けるのですが、RG・椿鬼奴コンビの時だけ、なぜか3台しかカメラが上がってこず「ここだけ少な!」と思いました。(・w・;

 

21時54分。

そんなわけでトラブルもありつつ、放送時間内に無事にチャンピオンが決まるところまで見届けられて、今日の出場者の方たちの今後の活躍もすごく楽しみになる人達ばかりで、とにかくイイものを見た、っていう気持ちにさせられる幸福な時間でした。

来年はどうなるでしょうか。また来年も面白いものが見られたらいいなと思います。そんな感じ。

*1:「プリプリ」「よしもと47ご当地市場」「本日は北海道のおいしい牛乳をたっぷり使ったクリームパンがお買い得」でお馴染みの、おいでやす小田さんです

NON STYLEっていいと思うんですよねって話

自分はNON STYLEが好きです。すごく好きです。

ライブも毎回足を運んで、出てる番組も全部見て、DVDやグッズも全部買って、って勢いでこそ無いものの、好きな芸人は?って聞かれたら自分は「笑い飯・千鳥・麒麟NON STYLE、その時期のbaseの芸人さんが特に好きです」と答えますし、実際にそうです。

しかし、自分が好きな他の芸人さん、例えば笑い飯や千鳥に対して、人前でも特に衒いもなく「笑い飯とか千鳥とか好きです」と言うのは難しくないのに対して、「NON STYLEも好きです」っていう時の、ちょっと何か一瞬ためらわれるというか、難しい感じ。自分だけでしょうか。

 

自分がNON STYLEのどこに魅力を感じているかを説明するのは、実際ちょっと難しい。

単純にあの2人が主にテレビや賞レースで見せる、超手数型の漫才をしてる時のひたすら心地いいテンポ感や、そこに伴う独特の美学や覚悟のようなもの、けしてボケの重さや世界観の独特さだけが「良い」とされる笑いの価値ではない、という部分に完全に割り切ったモノを持った、自分たちの武器を完全に正しく見定めてそれだけを極めていってる芯の強さも好きだし、逆に劇場のネタ出番の時に見られる、どんなネタでもどれだけでも長くも短くも出来るし、途中で客席で人が席を立ったり、子供が泣き出したりといったハプニングが起きようとも、それもネタに組み込んで笑いにして、けして客席の当人を吊るし上げるような形にせずに自然とネタに戻っていく、変幻自在の漫才力の高さも好きだし。

そういう面でも好きなんですが、特にこの人達のコトを「ああ、自分はこの人達が好きだな」と思った時があって、何年か前の祇園花月での2人のトークライブの時なんですけど。

 

もうどんな話題だったか、詳細に何を話していたかはほとんど覚えてないけど、石田さんがとにかく世の中の色んな事に不満を言っていて、特に自分が後輩や彼女にしていることに対しての相手の反応の悪さ、割の合わなさみたいな部分をグチっていて、それに対して井上さんが「ええやん」「別にそれくらい気にしてんなよ」って感じで全部返していくのが印象的で。

それを見ている時に、自分としては石田さんの言っていること、自分が人に対して何かをした分は、相手にソレについて気づかれて欲しいし、同じくらいの何かで返して欲しいと望んでしまう、そうで無いと不満を感じてしまう、というのにすごく共感するけど、それら全てを「別に(返りがなくても)ええやん」って、何のためらいもなく言い切ってしまえる井上さんのデカさもスゴいな、と感じて。

石田さんは(最近でこそ随分マシになったものの)一時のテレビや劇場でひとりでエピソードトークをする時の尋常じゃないオチの盛り方にしても、コンビでトークをしてる時の言葉の端々にしても、どこかで一歩間違えていたらアウトなんじゃないかってレベルで自分自身も他人の事も本当は全然信じてなんかいないんだろうな、っていう心の闇や余裕の無さを感じる時があって、だからこそウソみたいなオチも平気で言える、そこまで盛らないとウケないだろうという思い込みの偏執的な感じと、そんなオチでも聞き手は騙されて笑うだろうというような、どこか自分の客のレベルさえも信じてないような危うさ、それは芸人さんとしてはシンプルにマイナス点ではあると思うけど、自分にはものすごく他人とは思えない要素を感じて、共感というか「つい、そこまでやってしまう感じ」にどうしようもなく惹かれるものを覚えていて。

そして、そんな相方の横で真逆の存在として、どんな話でも前向きに捉え直して進んでいく、今やテレビの世界だけでなくツイッター上で一般人にまでも、どれだけイジられようと中傷されようとも真っ向から攻撃で返すのでなく笑いに変えていく、どんな時でも一切心の闇のようなものを見せたり武器にしたりせず、ひたすら余裕だけを見せて人から受けた仕打ちや態度に対しての整合性のようなものを一切気にせずに、自分からは明るい影響しか返さないような存在の井上さん。

 

自分がNON STYLEを好きだなと思うのは、そういった両極的な人間性が奇妙なバランスで噛み合って、両方が両方を肯定しながらいいように作用している感じ。それがすごい好きなんだなと思う。

心の余裕のありなしみたいな部分は、その人が今までに人や世界から自分の存在を許されてきた影響、それらによって決まっていくと思っていて。自分自身が許されてきたゆえに「計算合わんでもいいよ」って言える人と、自分自身があまり許されてこなかったゆえに、他人に対しても「計算合わないことが許されるわけない」って思う人と。自分もぜんぜん自分に余裕が無い方だから、余裕の無い人の、余裕が無いゆえにやってしまう失敗や視野の狭さもよくわかるし、それを責めたくないし、でも余裕のある人の人間的なデカさにはホントにただただ憧れるし。

自分はNON STYLEをそんな風に見ているし、すごく好きです。という話でした。