ルージング・コントロール

初めて就職して入った会社は、今にして思えば異様な会社だった。

会社名や業種は割愛するけど、入社して最初の1ヶ月くらいは普通に週に2日あった休みも、ゴールデンウィーク明けくらいから普通に「2日の休みのうち1日は自主的に出社するように、なぜならこの会社では全員がそうしているから」みたいな理由で実質1日になり、退社する時間も定時の20時にはそもそも会社に戻れてないことが当たり前になり、22時、23時、25時、気がついたら「日付が変われる前に帰れる日は超嬉しい」くらいになっていた。そのうち週に1日の休みも無くなり、いつの間にか「あぁ、この会社は新人が入ってくる4月以外は基本的に休みとかないんだな」というのにうすうす気がつくようになった。

そのうち、月曜日から日曜日まで出社したまま帰れないようになった。月曜日の朝に1週間着回せる分だけの服をカバンに詰め込んで出社して、日曜日の朝に始発で帰ってくる。ひたすら洗濯機を回して、干して、その間は寝て、それ以外にやりたいことなんか何もなくて、すぐにまた月曜日が来る。

自分の人生の中で、その数カ月だけはテレビもネットもほぼ一切見てなかったし、音楽やお笑いのコトを気にする余裕もなかったし、音ゲーさえもやっていなかった。最初の僅かな時期こそ一人暮らしを楽しんでいたワンルームもすぐに寝るだけのための場所になり、誰かと連絡を取るという余裕も時間もなかった。今まで自分が楽しみにしていたこと、生きがいとしていたモノがいつの間にか全て失われると、自動的にそこに「仕事」が入ってきた。恐ろしいもので、それに抗いもせずに「今は仕事がうまくできるようになるコトだけを楽しみにしよう」とやや本気で思っているフシもあった。

社会人になるというコトはそういうコトだと自分に思い聞かせていたし、今はこんな状況でも、何年か我慢してたらいずれ少しずつはまた自由になっていくだろう、そう思う以外に今は出来ることがない、と思っていた。なぜか「辞めよう」「逃げ出そう」とは思わなかった。この程度を超えられなければ、自分はもう社会のどこでも何も通用しないと思っていたし、毎日そう言い聞かされてもいた。

 

幸か不幸か、自分が入社して半年経たないくらいでその会社は社会的に蒸発することになり、自分も荷物をまとめて実家に帰ることになった。

新卒で就職してすぐにドロップアウトして戻ってきたから相当に申し訳ない、気まずい気持ちはあったものの、実家の方も辞める前の数ヶ月は連絡もほとんどマトモに取れない状況だったのも判っていたので、とりあえず少しの間はとやかく言わず放っておいてくれた。

久しぶりに自転車で市内を走り回った。久しぶりにゲームセンターで音ゲーをして、本を買って、夕方に家に帰ったら19時から「爆笑レッドカーペット」をやってるのをオンタイムで観られた。次の日は昼からうめだ花月、夕方からbaseよしもとを観に行った。誰に対してなのかさえもわからない罪悪感に包まれながら幸せだった。というか、今にして思えば変な感覚だけど、しばらくは仕事をしていないコト、仕事以外のことをするコトに対しては、わけのわからない罪悪感しかなかった。

その後しばらくして何とか無事に再就職でき、新しい職場では少なくとも週に2回の休みが奪われることは滅多になかったし(たまに病欠の人の代理とかで緊急で入る日はあるとしても)、残業だってあってないようなレベルだった。たまに遅くまで書類に追われる日といっても日付をまたぐようなことはありえないし、普段はそれこそ仕事終わりで走れば19時や20時からの劇場での夜のライブを見ることも出来る程度には早く帰れる。

そういった日常を取り戻すと、いつの間にか遊ぶコト、仕事以外の時間に仕事以外のコトをして過ごすコトに対する罪悪感も消えていったし、仕事以外のコトで「自分はこういうコトがしたい」と思うようになる、実行に移していけるレベルが、少しずつ上がっていくのを感じていた。そうなるにつれ、前職の時を思い出すと「あの頃はなんで、あそこまで切羽詰まった行動しかできなかったんだろう…」とも思うようになっていった。今の職場や今の仕事にも問題や自分自身への課題は少なからず山積みに存在するけど、しかし当時と比べれば相当に余裕があり、幸せな状態にあると思っている。

 

人間は、何らかの理由で急に余裕がなくなり(例えば、時間、お金、モノ、人間関係、自分の名誉や立場、そういった自分を支えている要因の何かがどんどん削られたり失われたりして)精神的に弱ってたきら、弱るほど自分の中の判断力は落ちていくし、物事を捉えるための視野は狭くなっていくし、結果的に選択できる次の行動のレベルがどんどん落ちていく、と思う。

ちょっと正気に戻れたら「なんでこんな選択をしたのか?」って思えるコトも、その時は必死に考えてそれをベストと思って選んでいる。例えば、人が自殺するのとかは、それの極限たるものなんだろうな、と思う。

人が自殺したニュースとかを目にすると、「そんな理由で、何も死ぬことないのに…」って思うけど、きっと当人にしたら限界まで追い詰められ、弱りきった精神レベルでは、考えられる最善の選択が「もう死ぬしかない」ってなるんだろうなと思う。それほどに、人は弱ると正常な判断ができなくなるし、信じられないような選択肢を正解だと思い込んでしまう。

だから、個人的にはどんな状況でも、ヤバいと思ったらとにかく逃げちゃえって思っている。とにかく逃げて、いったん距離を置いて、落ち着いて見つめなおして、それから考えたらいい。その程度で死んだりすべてを失うようなことはないし、むしろ、自分がそういう状態の時に助けてくれないような人や組織は、自分の人生の方から必要ないと思っていいと思う。そして、逆に自分の身近な人で正常な判断を失ってると思える人が居るときは、その人だけじゃなくてその人を囲んでいる状況に目を向ける必要があると思うし、そういう追い込まれて判断を失っている状況の人に、まっすぐ常識を持ちだして説得するのは、お互いに辛くて不毛な作業になってしまうと思う。

 

そんなコトを思い出した、お昼のニュースでした。

「エンタの神様」と、テレビが見せる、解けない嘘のこと

「エンタってヤラセなんだぜ」って言う人は多い。

なんとなく「エンタの神様という番組は、ヤラセをしている」みたいな認識は、一部のテレビやお笑い好きに限らず、割と広いレベルで持たれているようにも思われる。

 

エンタの神様」という番組について、何か言葉にすること、あの番組について好きか嫌いかや、自分はどう見ているかを人前で言葉にするのは、とても難しいと思う。ましてや、お笑いが好きな人なら特に。

「番組の演出が過剰だ」「芸人さんに本来でないキャラやネタを強要する」「そもそも、芸人さんやお笑いに対して愛を感じない」などの、いわば紋切り型の批判で悪く言うのもありきたりすぎて、なんか今更というか、わざわざ言う割には浅い感じがする。

かといって「世に出てなかった芸人さんを多く輩出した」「実際にあの番組からブレイクして成功した芸人さんも多い」「ネタ番組が少なかった時代に毎週コンスタントにネタをオンエアした功績は見逃せない」みたいな言葉で擁護するのも、どこか気が引ける。確かに、あの番組には実際にはそういった面はあるのだが、それにしても多くの視聴者にとってあの番組の印象は、トータルでは好意的には見れない、どうしたって不快感が拭えない場面が多すぎた。

なにしろ、功も罪もありすぎるのだ。一言で「どう思う?」と言われて、こう思う、と返せるような番組ではないと思う。

 

昨日の夜、久しぶりに日本テレビで「エンタの神様」の特番をやっていた。

レギュラー放送自体は終了して久しいが、その後も年に数回のペースで特番という形で放送を継続しているし、内容自体はそう大きく変化していない。そして、多くの人がきっとそうであるように、自分もブツブツと思うところはあっても、結局「いまどきテレビでネタ番組が見れる」という魅力に抗えず、ほとんど毎回見てしまってる。そんな感じだ。

昨日も途中から見てたけど、NON STYLEの漫才で、明らかにネタの途中で不自然にカットされ、いきなり井上さんのどアップで「もうええわ」というシーンに繋がれ、そのまま終わってしまった時に急に心が折れて、見るのをやめてしまった。ひどい編集だと思ったけど腹は立たなかった。自分の中で、この番組に対する期待もその程度だからだ。

 

そんなわけで、日が明けてから録画で残りを見ていたんだけど、カンニング竹山さんのネタというか漫談というか、とにかく竹山さんの部分だけ、普段のエンタとは若干毛色の違う、不思議な感じの内容になっていた。

エンタの神様には、いわば「ハプニング枠」がある。カンニングに始まり、クワバタオハラに継がれて、あと何組か誰か居たような気がするけどもう名前も覚えられていないような、そんな枠を担当してきた人たち。

彼らは「エンタの神様」の初登場時に、舞台上でネタを放棄してケンカをしたり、急にウンコをしようとしたりして問題を起こし、次回出演時にはその謝罪をするとみせかけ、また問題を起こす、といった流れを見せる担当の人たち、のような枠。

言うまでもなく、プロの芸人がエンタの神様のステージに立てただけで急に舞い上がって本当にケンカをするわけがないし、ウンコをするはずがない。そして何より、「エンタの神様」という番組は、大量に収録したネタを、ぶつ切りに加工して1時間のプログラムにするような、良くも悪くも超強力な演出のもとに管理体制化された番組だ。芸人側から持ち込んだハプニングをそのままぬけぬけと放送するなんて、万に一つもありえない。

それを人によっては「ヤラセ」と呼ぶだろうし、人によっては「演出」と呼ぶだろう。ある人は「悪質な番組だ」と言うだろうし、ある人は「芸人さんも納得の上で出演しているのなら、いいのでは」と言うだろう。

何にせよ、エンタの神様というのは、その辺の虚と実の境目を縫うように走ってみせる、その過程では、ただの悪質なヤラセやサクラとしか思えない場面や、大テレビ局のゴールデン番組という立場を使った若手芸人へのパワハラとしか思えないようなひどいネタを強要している場面も見せてきたし、それでも、常にそれに対しての批判の声を嘲笑うかのように新しい、虚実ないまぜのネタを作って見せ続ける。そんな番組だ。

 

今回の竹山さんのネタは、そんなカンニングの「エンタの神様」での出演の歴史を当時のVTRで順番に振り返り、「舞台でウンコをしようとした事件」や、その次の回での舞台上での謝罪からのケンカなどがダイジェストで流れ、最後に「色々ご迷惑もお掛けしたけど、この番組のお陰でカンニングはキレ芸とか呼ばれてどんどん売れていったんだよね、結果的には」という、番組への感謝でシメるような内容だった。

ここまではとても通常営業というか、とてもエンタの神様的だと思った。実際には「エンタの神様」にカンニングが出ている頃には既に「笑いの金メダル」にも出ていたはずだし、めちゃイケの「笑わず嫌い王決定戦」での大爆発はもっと手前にあったはずだ。本当にカンニングのブレイクはエンタの神様の手柄だったのかは、かなり怪しいところなのに、そこを自分で「この番組のお陰で…」という脚本を用意し、それを芸人自身に、自分で用意したネタのように言わせる。

この図々しさや悪どさこそが、エンタの神様の真骨頂であり、10年以上も番組が続く所以でもあるのだろう、と思う。

 

しかし、この時の竹山さんの出番はそこで終わらなかった。

一瞬の話が途切れた間を挟んで、竹山さんが再び話し始める。

さあ、そして今日ですよ。今ね、僕あの年に1回、「放送禁止」っていう自分の単独ライブをやってるんですよ。そこでは2時間ぐらいずーっと自分の色んな事をお話するんですけどぉ…

再び少し間があいて、ニヤニヤした竹山さんが再び口を開く。

 …こっから完全にアドリブやります。(客席がざわつき始める)

いいよねー!五味さん*1いいよねー!

こっからは、スタッフにも言ってないことやります!(客席が大きくどよめく)

使う使わないはスタッフが決めろ!俺のエンタはこんな感じよ!昔から!

これが、アドリブってやつですよ!行くぞ!

…前と一緒のことやります。

(おもむろに服を脱ぎ出す、客席から悲鳴が上がり始める)

これがテレビですよ。これがテレビ。

ここから竹山さんは黙々と服を脱ぎ続ける。

途中で、詳しく聴き取れないけどスタッフの囁き声で「竹山さん、竹山さん、○△□×…」と話しかけているのが入っている。それに対して、竹山さんはヘラヘラ笑いながら

 えー?大丈夫!大丈夫やって!お前らが学生の頃から俺はずーっとテレビやっとるんやから!

と返す。そしてそのままシャツをを脱ぎ、上半身裸の状態でズボンのベルトに手をかけ、続けて

 ちゃんと使えるようにして渡してやるから!

(ここでベルトを外し、靴を脱ぎ捨てる。客席からまた悲鳴が上がる)

「えー!」ってお前らのお父さんも家帰ったらこんな格好しとるやろが!

そしてそのままパンツ一丁になった竹山さんは再びピンマイクと送信機を持ち、画面に向かって語りかける。

よし。(音声)入ってるー?大丈夫?

いいかー!俺はね、みんなに言いたいことがあるのよ!

だから、いっちばん好きな格好でみんなに言ってやりますよ!

あのね?おい、3カメ俺映せ!まず映せ!全体映せ!

俺の顔映すな(画面がズームインされ、バストアップの竹山さんが映りそうになる)、全体映せ!(画面がズームアウトされ、パンツ一丁の竹山さんの全身が映る)。そう!

これがテレビよ!!

今起こってることを映すのがテレビというメディアなんです!だから、テレビは面白いのよ!

テレビには夢があるの!

そしてテレビを見てるちびっこ諸君!君らにもちゃんと言いたい!

おじさんはね?約10年前、このステージでウンコをしようとしてね、無我夢中でウンコをしようとして、夢を掴みました!…だから俺、何が言いたいかって言うと、今きみはやりたいことがあるかもしれない、夢中になってることがあるかもしれない、それをね、必死でやんなさい!一生懸命やんなさい!

こんな姿で、偉そうに言ってるけど、こんな姿で偉そうに言えること、これがテレビ、テレビには夢があるってこと!

どうしてもね、今日はそれを伝えたくて、ここにやってまいりました。

みなさん、ごめんなさいねなんか。(以下略)

ここまで、若干のカメラの視点は動くことはあれど、ほぼ終始して画面にはパンツ一丁のオジさんが口角泡を飛ばす勢いで喋り続けている。エンタの神様特有の字幕テロップもなければ、画面右上にネタのタイトルも表示されず、ただ左上に「エンタの神様」という番組名と、ステージの上にパンツ一丁の竹山さん。それだけがノーカットで数分間映り続けている。そして、

これがテレビよ!!

今起こってることを映すのがテレビというメディアなんです!だから、テレビは面白いのよ!

テレビには夢があるの!

と叫んでいる。あの、芸人が持ち込んだネタを却下して作家が用意したネタを演じさせるのが日常で、収録したネタをガシガシとカットしながら番組全体のリズムを作っていく「エンタの神様」のステージで、その番組で起こしたというハプニングでブレイクしたという、カンニング竹山さんが、である。

ここまで来ると、もはや虚も実も、その境目も、それを探ろうとする気さえも必要としないようなリアリティを感じた。なんか、単純に見ていて、ヤラれてしまった。単純にパンツ一丁のオジさんは格好良かったし、何かをテレビからお茶の間に伝えたような気がした。

何より、テレビや映画というメディアを使って「虚実の境目を見せる」という試みは今までにも数知れず行われてきたはずだ。フェイク・ドキュメンタリー的な映画や番組は多数存在するだろうが、そういった番組は通常は衛星放送や、単館上映の映画や、NHKの昼間のような、そんな多くの人が見る形ではめったに放送されない。

そこに、この番組は堂々と全国放送のゴールデンの、「SMAP×SMAP」にぶつけるような時間に、どんなに少なく見積もっても数百~一千数百万人は見ていたであろう時間に、こんなカオスを放り込んできた。

あれを見た多くの人はどう思ったのだろうか。

やっぱり「な、エンタってヤラセなんだぜ」って言ったんだろうか。それとも、竹山さんに心打たれたのだろうか。そして、あのネタは本当に途中から「完全にアドリブ」だったのか。それとも、今回も全ては演出の手の内だったのか。

そんな、「解けない嘘」こそがとてもテレビ的で、民法の大テレビ局的で、お笑い番組の役割としてあまりにまっとうで、夢があるな、と思ってしまった。よりにもよって、「エンタの神様」で。そんな数分間でした。

*1:同番組の総合演出の人の名前

respawn!

なるべくブログは止めずに続けよう、と思ってたのですが、案の定止まってました。

 

 

なんとも人に言うような話でもないのですが、最近はやたらと自分の中で「変わりたい」という願望が強くて。メチャクチャ強くて。

とにかく今までの自分じゃダメだ、もっと引き出しを持ちたいと思って、今まで行ったことないような場所にやたら行ってみたり、読まないような本を読んだり、今までだったら絶対やらないような行動をしてみたり。とにかく、休みがあれば何か予定で埋めないといけない、みたいな強迫観念的に、ドタバタと。

(中学生か!と言われそうですが、中学生頃にそういう焦りを何も感じずにボケーーっと生きていたしわ寄せが今、全部来てるんだろうなーと思います。遅い!!!!!)

その結果どうなってるというと、別に何かが身についてるとも思わず、ただ闇雲に時間と体力とお金を消費して、そこを無闇に消費していること自体の方に意味を感じてるというか、「こんだけ消費してるんだから何か意味があるだろう」と思ってるフシのあるような状態になってるな、と思って。

何にもなっちゃいないのに。きっと、訳の分からない雑用をやたら増やして、自分が他に本当にするべきことから逃げているだけなのに。

 

「変わりたい」っていう願望自体は今も全然あるけど、ちょっと今の方法じゃないなと、やっとこ気がついた感じの今日このごろです。

 

やり直しです。色んな意味で。

足跡の中を旅してる #009 / Tokyo No.1 Soul Set "JIVE MY REVOLVER"

Tokyo No.1 Soul Set - JIVE MY REVOLVER

かつてスチャダラパーが中心となり形成されていた、文系でサブカルでオモロなノリを共通の価値観に持つヒップホップグループの集まり、LBネーションの中でも特に我が道を突っ走っていたのがTokyo No.1 Soul Set

「ヒップホップは好きじゃないけど、ソウルセットは好き」みたいな言い方をする人も少なくなかったように(個人的にはヒップホップが好きだし、ソウルセットも好きなんですが!)、それくらいヒップホップという言葉の概念からも距離をおいてしまうくらいの独自の音楽性、文学性、そして空気感。今にして、あえて悪く言えば「めちゃくちゃサブカル好みする音楽」と言えなくもないんですが、当時にすればサブカルという概念も、そういう層を狙ってモノ作りをするという方程式も今ほど確立されていたわけでもなく、あくまで全てが結果的にそうなっていた、といったほうが正しいように思います。

 

ソウルセットの魅力は変幻自在すぎる音楽性でもあり、俊美さんの美しく伸びるボーカルでもあるんですが、個人的にはBIKKEさんのラップと、その言葉が綴る世界がたまらなく好きだったし、中高生の時分に聴くにはあまりにも重たすぎた、人間や世界に対しての達観や諦観みたいなものを強く突きつけられて、まだ子供ながらに本能的に「自分の中にある、見抜かれたくないものを見抜かれている」というような気持ちになり、戸惑ってしまう。そんな感じでした。

特にこの曲は好き。歌詞の好きな部分を引用しようと思ったけど、全部にならざるをえなくなるな、ってくらいに好き。

この曲に会うまで、自分の中では音楽といえば、もっと楽しかったり、美しかったり、怖かったり、悲しかったりするものだという概念はあったけど、「ただただ心の闇をストレートに見せられる」というタイプの音楽は初めてだったので、相当戸惑いながら相当聴いたし、今でもよく聴くくらい好きです。

 


Tokyo No.1 Soul Set - やぁ、調子はどうだい

この曲もすごく好き。当時、シングル「ロマンティック伝説」のカップリングで入り、アルバムに入らなかったのが悔やまれたんですが、後にベストアルバム(「Dusk&Dawn」)で入りました。よかったー

かしこまり口調で喋る君は
いつだって誰より一番乗り
列から離れて辺りを見回し
声をかけるタイミングを計り
狙った獲物は絶対逃さず
音もたてずにピッタリと背後に
必要以上に盛り上がる
生産手段、行き過ぎの協調
不安の風に煽られながら
二流の風に煽られながら
週末の電車、独り帰る
そんな君は決して若くはない

当時聴いてても「人に対する見方がすごい(エグい)」と思って聴いてたけど、今聴いたらいよいよシャレにならなくなってきてるわ!くー。(・w・;

足跡の中を旅してる #008 / かせきさいだぁ≡ "さいだぁぶるーす"


かせきさいだぁ≡ - さいだぁぶるーす

日本語ラップが好き、という方にも色んなこだわりや聴き方、色んな嗜好や遍歴の人が居ると思うんですが、自分はスチャダラパーやEASTEND×YURIをきっかけに、LBネーションやFG周辺を特に好んで聴いて、それ以外は聴かなかったわけではないけど、そこまで馴染めなかった、共感できなかったし、とっつけなかった、そんなタイプの聴き方をしていた中高生時代でした。

そんなわけで自分の中の「この頃の日本語ラップ」というと、正直キングギドラやペイジャーとかあっちの方向よりも、この辺ばっかり聴いてた。そんな感じ。

 

この曲は、かせきさいだぁ≡がメジャーで最初に出したアルバムの1曲目に入ってる曲。かせきさいだぁが面白かった、当時のリスナーに新鮮に受け入れられたのは、スチャダラパーやEASTENDとはまた違う意味での既存の日本語ラップやヒップホップとの距離の置き方、ラップ一つにしても押韻のテクニックよりも軽やかさや独特の文学性で聴かせる感じ、曲によってはラップすら無く歌うだけの曲があったり、トラックやコーラスにはヒックスヴィルやTOKYO  No.1 SOUL SET、ホフディランといった人選を起用して、音楽的には「黒さ」以外の色で勝負している感じ、そしてアルバムのあちこちで曲に、歌詞にサンプリングされる「はっぴぃえんど」の面影、そういった今までの人達とは一線を画すスタイルだったと思います。ホントに新鮮だったし面白かったし、何より聴いてて気持ちよかったし、心にスッと入ってくる感じ、そして今度はかせきさいだぁを入口にはっぴぃえんども聴きたくなる感じ。

 

ちなみにかせきさいだぁは2013年に(なかなか唐突に)アニソンカバーばかりを集めたアルバムを出し、色んな意味で世間や昔からのファンを驚かせるのですが(ていうか、もう殆どラップしてない!普通に歌ってるだけ!)、このアルバムの最後でマクロスFの「星間飛行」をカバーしています。


星間飛行 - かせきさいだぁ

普通のラッパーの人がある日いきなり「星間飛行」をノリノリで歌ってカバーしたなら、そこに何の意味があるのかはなかなか判らない話ですが、この人に限って言えば、ずっとはっぴぃえんど=松本隆への敬愛を表し続け、その松本隆が別の流れでアニソン業界と合流して生み出したヒット曲「星間飛行」をかせきさいだぁがカバーするのは、当然以外の何物でもないし、他にも途中に入る「キラッ☆」の声だとか、最後のフレーズだとか、コーラスが誰と誰とか、そもそも編曲がコーネリアスの「太陽は僕の敵」丸パクリじゃないか!とか、色んな意味で分かる人だけ首がもげるほど楽しめるし、ヘタしたら色んなコト思い出しすぎて、歴史がつながりすぎて泣いてしまう曲。そうでなくても普通に楽しめる曲なんですが!

足跡の中を旅してる #007 / スチャダラパー "ヒマの過ごし方"


スチャダラパー - ヒマの過ごし方

日本語ラップが一番最初にブームを迎えた時期、スチャダラパーやEASTEND×YURIが先頭に立ってヒットチャートに爪痕を残していた頃のこと、いわゆる日本語ラップの重鎮たちや*1、その周辺に居たリスナーやライターたちの多くは、彼らの「おもしろおかしいリリック」「とっつきやすい風貌」「ポップな音作り」といった部分を「セルアウトだ」と評し、おおむね無視や黙殺に近いスタンスを取り、勝手に「J-RAP」というレッテルを貼り、「(自分たちのやっている)ホンモノとは違うやつ」という主張をしていました。

しかし、個人的には彼らの最大の功績や発明は、そういった「おもしろおかしいリリック」「とっつきやすい風貌」「ポップな音作り」といった部分ではなく、「普通の人の普通の生活をリリック(歌詞)に乗せてラップする」といった部分ではなかったのか?と感じています。

それまでは日本語ラップといえば当然のようにワルで硬派でテクニカルで、何かといえばパーティだの、俺はこんなにワルいだの、夜遊びだの、ワックMC皆殺しだの、そういった世界観でしかラップは存在し得ない価値観だった世界で、彼らは当然のように「ゲームが好き」だの「やらなきゃいけないことがあるのにめんどくさい」だの「遅刻しそうだけど、どう言い訳しようか」だの、一般の生活を送る普通の人の普通の出来事やトピックを、シンプルに中毒性の高いブレイクビーツに乗せて軽々とラップしていきます。

そんな中でもこの曲は出色の出来で、「ヒマ」についてひたすら考え、歌い続けるだけの曲。

なぜいそがしくするのだろう
何もしないでいられないのだろう
何もしない不安それは何だ
恐いのはただただある時間
縮める事も のばす事も
ましてや 消すことも不可能
(中略)
かなり思いがけない事だが 人は
必死で ヒマをつぶしてるだけだ

ヒマであることに対して「ヒマだねーってよく言われる」「まずいい意味では使われない」と感じつつ、そこからひたすら考えを巡らせ、最終的に「ヒマを生きぬく強さを持て」とまで言い返してしまう、強さ。

当時「ホンモノ」を自称していた人達は彼らの「自分たちと同じでない」部分に拒否反応や嫌悪感を示し、「同じでないことは良くないことだ」とDIsしたものの、彼らにしたらそんな声は届きようもなかったのかもしれない。なぜならモノの捉え方が、まるきり違うから。

考え過ぎかもしれないけど、そんな風にさえ思えてくる曲。

*1:いちおう誤解のないように言えば、スチャダラパーやEASTENDだって日本語ラップの世界では大重鎮なんですが、彼らを除く層の重鎮たち、という意味で

足跡の中を旅してる #006 / Chappie "Welcoming Morning"


Chappie - Welcoming Morning

1999年発表の曲。Chappieはグルーヴィジョンズというデザイナー集団が手がけていて、当時いろんな媒体に使われていたキャラクター(PVにもずっと映しだされている、顔だけ同じで髪型や服を無限に組み替えていく、アバターのようなキャラのすべてがChappie)で、そのChappieがCDを出すことになった、というちょっと風変わりなコンセプトのモノでした。

そういったキャラクターのコンセプトに合わせ、Chappieは1曲ごとに歌う人も違えば曲を作る人も次々に変わっていく、また、曲を作った人達のクレジットは公開されるけど誰が歌ったのかは公開されない、という形での作品発表が行われていました。ちなみにこの曲はプロデュースはpal@pop、他にも草野マサムネ小西康陽福富幸宏細野晴臣川本真琴ROUND TABLE井上陽水、森俊彦(=ajapai)などなどキテレツにして超豪華なメンバーが寄ってたかって集まり、後に1枚のアルバムが出ています(「NEW CHAPPIE」)。これは本当に20世紀最後の金字塔クラスの名盤なのでどこかで見つけたら保護して聴いて欲しいです。いい曲しかない。

 

ちょっと話はそれましたが、そういう能書きは全て抜きにしても、初めてこの曲を聴いた時の単純に「すごすぎる!」っていう、ぶっ飛ばされた感じは今でも新鮮に残ってるし、今あらためて聴くと「実在しないキャラクターの楽曲を、その時代の人気のクリエイターが(匿名的に)手がける」という手法や、それに乗せる音楽に(アニソンやアイドル的な流れの中の伝統的なタイプのアレンジではなく)その時代の新しめの音を取り入れていく感じなど、現代のPerfume初音ミク元気ロケッツきゃりーぱみゅぱみゅ、あたりの音楽の系譜に対する、早すぎた先駆者だったのではないかと思います。

言い過ぎ?いやいや、それくらい今聴いても色褪せない名曲。