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ウーマンラッシュアワー新ネタ漫才ライブ「漫才を超えた漫才in大阪」

11月2日夜の大阪中央公会堂でのウーマンラッシュアワーの単独ライブ「漫才を超えた漫才」を観に行きました。

(まだ全国ツアーの途中であり、このエントリではいくらかのネタバレも含むため、今後の公演に行かれる予定のある方は続きは読まないで、できるだけ先に何も情報を入れないで楽しめれることをオススメします。)

 

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特別な人/そうでない人

例えば、今あなたに、好きな人が居たり、あるいはパートナーが居たり、可愛がっているペットが居たり、すごく好きなアーティストやアイドルや作品なんかがあれば、話は早いと思うんですけど、あなたがそれらを「何よりも好き」であり、「他の何かと比べられないくらいに好き」であり「嫌いになれるわけがない」こと、その気持ちは嘘ではないと思う。

そして、その時に、あなたがそれらを「好き」である事、それらを全肯定する事に対して、他人の誰かが口を挟む必要や余地はないと思うし、ましてやそこに「理論的な正しさ」でもって口を挟んできて「あなたがそれを好きなのは間違っている」「こんなに良くない部分もあるのに、全肯定しているのはおかしいのではないか」と理由を並べてくる人が居たら、相手にしないで蹴っ飛ばしてやればいいと思っている。

 

早い話が、誰もが自分の中に持っている「私の一番大好きな人やモノ」は、ものすごく客観的に、ひたすら相対的な評価で見た時、「一番評価されるに値するだけの理由や価値のある人やモノ」では無いと思う。

誰もが人間界の一位や、アーティスト界の一位しか好きになってはいけない、それ以外は「理論的な正しさ」でもって「それを一番好きになるのは理論的におかしい」と否定されてたら、やってられないし、そもそも人類は成立しないし、私たちは生まれていない。

逆説的に言えば、誰もが「一位ではあるわけがない人やモノ」を「私の中の一位」にして、全肯定して好きになったりなられたりして生きているから、この地球は回っている。と思う。

 

ただし、それは、各々の中にある「特別に好きな人やモノ」の話。

逆に言えば、誰もがいくつかの「特別に好きな人やモノ」を持っていて、それらに対しては特別に全肯定しているけど、それら以外の大多数の「別に特別に好きではない人やモノ」に対しては、誰もが各自に持っている価値観の中で、それなりに良い悪いを判断して、自分の中でふるいに掛けて生きている。

だから、例えばAというモノに対して、Aが本当に大好きで、理屈抜きに全肯定している人が居ても間違っていないと思うし、別にAをそれほど好きでもなんでもない人が、自分の価値観やフィルターを通して、良い部分も悪い部分も見据えて、冷静に良かったり悪かったり批評をしていても(あるいは、特に表立って批評をしていなくても、そういう風に批評的にそれを見ていても)、それも間違っていないと思う。

そして、その時に両者が「これを全肯定しないなんておかしい」とか「これは、冷静にデータで観てみるとこんな部分やこんな問題もあるのに、それを観ないようにして肯定だけするなんておかしい」とか、それぞれに思うことはあったとしても、言いあわなくていいと思うし、お互いが不可侵の領域であることを受け入れて、尊重しあえればいいと思っている。

 

なので、自分が大好きな何かが、誰かにとっては「ちょっとなんでそんなに好きになれるのかわからない」何かでも、別にそんなにオカシイことではないし、誰かの大好きな何かが、自分にはちょっとそこまで魅力がわからないとしても、別にいいと思う。

勿論、自分は自分の出来る範囲で、自分の好きなモノの魅力を言葉にしたりして、まだそれが大好きでない人にも伝えたいと思うけど、そこに必ずしもの「これは誰もが絶対に大好きになるべきだ」的なところまでの気持ちや思い入れなくていいと思っている。そして逆に、誰かの好きなモノ語りにも、そういう気持ちで読ませてもらたtリ、話を聞かせてもらってたらいいと思っている。

自分にとっては全肯定するべき人やモノを、誰かが理論立てて「こういう良くない部分もある」と、良くないように言っていても、それで自分の気持ちは動かされなくていいと思うし、かといってそれを言っている人を「ひどい人だ」「考えを変えさせないと」とも思わない。その人にとっては、その人やモノは特別なものでないなら、理論的に批判するのもまた当然だと思うからだ。

 

なんとなくそんなコトを思う、今日このごろです。

ひとのせいにするひと

今回はホントにシンプルな仕事でのグチの話です。

 

先日、自分の職場(とある小さい介護施設です)で、あるトラブルがあった。

問題の中心は、自分よりだいぶ年上で、前までは違う仕事をしていたそうだが、最近この業種に入ってきたヘルパーのおじさん。

そのおじさんは、ホントに日中にあまりに仕事をしてくれない。そもそも介護が好きじゃないんだなあと思う(じゃあなんで来たんだって話だけど)。何度注意されても、ちょっと目を離すとすぐにみんなの死角に行ってサボってる。その日も相変わらずの態度で、管理者(そのおじさんよりは年下の女性で、普段からあまり気が強い方ではない人)が珍しく声を荒らげた時に、そのおじさんも珍しくブチ切れながら言い返した。

「そもそも、お前らの教え方が悪いから俺も聞く気がしねえんだよ!」

「お前らが今の偉そうな態度を反省して変えない限り、俺もいつまでもやる気になんねえんだよ!」

 

 

「オレがしている(した)ことは悪い(かもしれない)けど、それはそもそもお前にも原因があるんだからな」

「お前が○○なのがいけなかったから、俺がこうなったんだからな」

的な言葉を使って、自分がやっている事(やった事)を悪いことと自覚していながら、それを悪かったと認めず、それどころか「お前に悪いところがあったから俺が悪くなった」と責任を相手に押し付けて居直ってしまうタイプの人というのが、世間にはどこにでも一定の割合で居るなあ、と思う。

また、それを言われた相手側の人も、性格が優しすぎたり真面目すぎたりするとそれを真に受けちゃって「確かに私にも悪いところがあった」「私が悪かったから、この人をこんな風にしてしまった」みたいに反省したり、ホントに自分が悪かったと、責任を引き受けたりする。

 

違いますから。絶対に違いますから。

 

人間なんてカンペキな人は居ないし、どんな人だって探せば欠点なんていくらでもある。けれど、それと「今回、自分は意図的に何かしら悪いことをした」のを混同させて、「あなたにも悪い部分はある」と話をすり替えて相手のせいにする人が正しい訳がないと思うし、そのやり方で切り抜ける人は、また次もどこかで同じやり方で自分の悪いことをまた別の人のせいにしていくと思う。

そして、それは反抗期くらいまでの子どもが逆ギレでやってるならともかく、社会に出て人と一緒に働いているような大人が使う方法論としては最低だと思う。

自分はそんな人に振り回されたくないと思うし、自分の知ってる人がそんな人に振り回されてて欲しくないと思う。ホントに。

 

以上、ホントにシンプルな仕事のグチでした!!!!!

久しぶりにザ・パンチの漫才がめっちゃ観たい。

市川春子「宝石の国」/ごく個人的な視点での話

市川春子さんの「宝石の国」の4巻が発売されました。

とは言っても自分は(同作品が連載されてる)アフタヌーンも読んでないし、「宝石の国」自体も3巻が出た頃から読み始めて楽しんでいるニワカもニワカなんですけど、ものすごく面白い作品だと思います。ホントに毎回「次はどうなるんだー!」と思わされる。

 

この作品の魅力を言葉にするのは物凄く色んな角度があると思うんですけど、個人的に主人公のフォスフォフィライトが好きすぎるので、このキャラについて少し文章にしてみたいと思います。

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(↑常々思ってる方がフォスフォフィライトです。ちなみに、すっごく変わってみるのを提案してるのはダイヤモンド)

 

最低限のあらすじを説明すると、この作品は「人間がいなくなった地球に住み続けている、人間の形をした「宝石」と、その宝石を月から奪いに来る「月人」と呼ばれる生物(?)との戦いを描いた作品」みたいな感じになると思います(少なくとも、今の段階では)。

主人公のフォスフォフィライトは、最初は「ドジで臆病で脆くておっちょこちょいだけど真っ直ぐで」みたいな、まさにマンガの主人公の王道を行くキャラなんですけど、話が進むにつれフォス(作中ではこう呼ばれる)が経ていく成長の過程は、ちょっと他のマンガでは類を見ないくらい、ドラスティックで驚かされます。

ネタバレを避けたいので詳細には触れないものの、あくまで(人の形をしているけど人間ではない、怪我や死の概念がない)宝石だという事を逆手に取るように、フォスは話が進むにつれ、身体の一部を失い、違う素材で再生させては、人型の原型さえどんどん失って、性格までも変わっていきます。

それはいわゆるマンガ的な、『最初は臆病で弱かった主人公が戦いの中で色んなコトを学んで勇敢になり、力を手に入れる』的なのとは毛色の違う、最初のドジで臆病で脆くておっちょこちょいだけど真っ直ぐだったフォスフォフィライトは、話が進むにつれ最初の頃とは比べ物にならないくらい強く、俊敏で、冷静に行動するようにはなるものの、なんともいえない脆さは変わりなく感じさせられる、そんなキャラになってきている。いわゆる「成長する」「レベルアップする」という概念には括れないような、そういう言葉で表すにはあまりに斜め上が過ぎるというか。

そんなフォスを読み進めるうちに思うのは、最初の「ドジで臆病で脆くておっちょこちょいだけど真っ直ぐで」の部分に愛着や共感を感じていた自分が、気がつけば割とそうでなくなっていても(ついでに見た目も結構変わっちゃっても)、フォスというキャラに変わりなく愛着と興味を持っていることに気づかされます。

 

ヒトって、少なからず「変わりたい」と思いながらもなかなか変われない、自分というキャラを構成している(特に、自分が周囲に対して「これが自分」という目印のように使っているような部分の)要素を変えたり、捨ててしまうことって、それをすることで自分の周りに居てくれてる人達が離れていくのではないか、呆れられたり笑われたりするんじゃないかと思ったりして、なかなか出来ないと思うんです。

だけど、少なくとも自分はこの作品を読んでいる間で、フォスが(自分が最初に愛着を感じたような部分から)次々と変わっていくことに対して、それでそんなに愛着を失っていく感じがしない、共感できなくなっていくわけでもない、別にそこだけで見ていない(見ていなかった)自分が居ることに気付いてしまう。

そうなってくると思うのは、人が何かしらのヒトやキャラクターや、無生物でも、何かに対して興味や好意を覚える時、その対象物自体に愛着を感じているのか、それとも、その対象物が持っているステータスのようなものに目的を見つけて接触しているのか、二種類あるなあと思ったり。

前者であれば、その対象物の存在自体が大事だから、その対象がどんなに変わっていこうと存在してくれているだけで割とずっと肯定してついていられるし、後者であれば、その対象物が変化して、自分にとっての「目的」が失われた時点で、一気についていく気がなくなってしまう。

 

それで、人間も案外そんなもんじゃないかな、というか、自分が「これが自分」と思って使ってるつもりの要素をいくつか持っているとしても、それをある日急に捨ててみたり変えてみたところで、自分にとって本当に(という言い方も重さがありますが、まあ自分を「目的」ではなくて)見てくれている人にしたら、意外とそこはどうでもいい部分、そんなに自分が思うほど気にされている部分ではないのかもしれないな、というか。

そんな風に思うと、自分が「変わりたい」と思いながら変わろうとするのを躊躇する時に、このフォスフォフィライトの変わっていきっぷりは、少し背中を押されます。きっと。

 

あんまりうまく説明できませんが、それ以外にも、とにかくフシギで「どういう考えしたらこんな発想が出てくるんだ」と思わされるような設定やストーリーも、読んでいる最中の頭のなかで静と動がカチカチ切り替わりながら進んでいくような独特のテンポ感も、そして何より各キャラクターが持つ魅力や美しさも、色んな意味でハマらされるとっかかりの多い作品だと思います。一度読んでみていただければ!

 

宝石の国(4) (アフタヌーンKC)

宝石の国(4) (アフタヌーンKC)

 

 

最近のいろんなこと

・ご無沙汰しています(割と常に)。

・別に狙ってるわけではないんですが、最近はずっと月イチでブログを更新してるペースが続いていて、でも今月はまだ何も書いてないのに4月が終わろうとしているのに気がついたのがさっきで、とにかくなんか書いておこうと思って書いてます。なんだそれ。

・そんななので、今回は段組も構成もない、箇条書きで思ったままにバシバシ打ってます。

・ブログのエントリにして書き残したい話は割とたくさんあって。関西でやってる木曜日のダイアンのラジオ「よなよな」が面白いとか、ウーマンラッシュアワーオールナイトニッポンが面白かった(過去形)とか、ヘルニアになって治った話とか、京都市交響楽団のコンサート「発見!クラシック」で初めて目の前でタモリさんを観た時の話とか、最近の笑い飯や千鳥のイベントや番組をいくつか観た中で個人的にすごく思ってしまったこととか。仕事のこととか、家族のこととか、最近読んだ本のこととか。あと、いつまでも上げられないでいるけど、昨年の秋に京都精華大学でライムスターの公開講座に参加した時の話とか。今後、時系列もバラバラになっていくと思うけど、書き上がった順に上げていって、残していけたらいいなあって思ってます。率直に言って、誰かに読まれたいという気持ちもあるし、自分が忘れてしまわないうちに言語化して文章にして、残したいという気持ちも強い。って感じで。

 

・そんな感じで色々あるけど、最近つくづく思ってるのは「レベルは1ずつしか上がらない」みたいなコトで、例えば自分がある分野において、ものすごく無知で経験もなくて、周囲や同年代の人と比べてあまりにも差がありすぎる、それをすごくヤバいことだと気がついた時から、何かしらの手段を使えば一気にそのレベルの差を詰められる、そんな学習法やチャンスがあるかというと絶対にそんなのは無くって、どうしたって「差がすごくある」「少しでも差を埋めないといけない」って自分が気づいた時点から、コツコツと自分で行動して失敗したりコツを掴んだりして、自分のレベルを1ずつ上げて追い付かせるしかないなあ、っていう。

・どうしてもトシを取れば取るほど、自分が全くできない分野、全く身につけられてない要素については、何か上手くやれば一気にカバーは出来るんじゃないかって思って近道やチャンスを待ってしまうか、あるいは完全にフタをしてしまって自分で直視しないようにするか、逆に「できない自分」を開き直ってしまうかしがちなんだけど、どれを選んでもいつまでも救われないんだな、というのに気がついたというか。

・いいトシしてやっとそんなコトに気付いたりして、打ちのめされたり必死に埋め合わせたりしながら、自分の中の色んな(今まで見ないようにしてた)レベル1の部分を2にして3にして生きてる毎日です。当社比。ブログも、もう少しペース上げて書く習慣をつけないといつまでもレベル上げられないな、と思いつつ。がんばろー。

超・奇天烈コントライブ『不思議な時間』

なんばグランド花月の3月18日の夜公演「超・奇天烈コントライブ『不思議な時間』」を観に行きました。

 

出演は天竺鼠・シソンヌ・日本エレキテル連合の3組。今までには関東で2回開催されていて、今回が関西では初めて。

個人的にはシソンヌは「月刊コント」で少し、日本エレキテル連合は「タイタンシネマライブ」で観たことがある程度で、関西に住んでいながらにして、各コンビの営業や勝負ネタじゃない、コアな部分のネタをナマで観れそうな機会ってなかなかないし、今回のライブは色んな意味でけっこう楽しみにしていました。

 

開演前で、850席超のなんばグランド花月が完売こそしていないものの2階席の奥の方までほぼギッシリ埋まっているのが見られます。客層は男女も老若男女も様々で、ちょっとパッと見ても統計取れそうにない感じ。純粋にちょっと濃い目のお笑いファンで来てる人も多そうだし、普通に吉本の劇場に大阪のお笑いを観に来たという人、またエレキテルを観に来てる友達や家族連れの人達というのも少なくなさそうな感じ。

 

ほぼ定刻通りに開演、オープニング映像*1のあとに、まずシソンヌ、日本エレキテル連合天竺鼠の順番で2本ずつコントの上演から始まりました。

ここでは時系列ではなく、各コンビずつに簡単なコントの紹介(ネタバレにならない程度に)と、個人的な感想を残していきます。

 

◎ シソンヌ

 

1本目「祭り」

あらすじ:久しぶりに訪れたおじさんの家で、ちょうど明日には村の祭りが開かれることを知らされる。しかし、その祭りは…

2本目「機種変更」

あらすじ:男が自分のガラケースマートフォンへと機種変更しようと入った携帯ショップで、スマホの在庫をがないことを告げる女店員は代替として、とある電話機を提案する。

 

いきなり言う感想じゃない気がしますが、長谷川さんはデカい。と思った。

wikipediaによると185cmらしいです。自分の目は180cm台後半の人を舞台で見ると「デカっ」と思う傾向があるようです。閑話休題

どちらのコントも割と穏やかな始まり、スタンダードな「ツッコミ役の男がどこか(田舎の村のおじさんの家、携帯電話ショップ)を訪れて、そこに現れたボケ役(おじさん、女店員)が常識から外れた対応をして、それにツッコミが翻弄されながらも的確にツッコんで笑いに変えていく」というコントをしている、と思うけど、それにしてもボケ側のじろうさんのキャラに対する憑依、というか、方言や女性の口調の言葉遣い、衣装やメイクなどの外見、そしてぎこちなかったりクネクネしたりする動き、あらゆる面から自分の演じるキャラを徹底的に作り上げてる感じがスゴくて、それに対してのツッコミの長谷川さんはごくプレーンな男役で、常識的かつキレキレの言葉のセンスとタイミングでバシバシとツッコミ返していく感じとの対比がすごく鮮やかで小気味いいな、と感じました。

あと、今回のネタの世界観が2本ともたまたまそうだったのか、それともシソンヌの持ち味なのか、どちらも長めのネタ時間*2の中で少しずつ常識から滑り落ちていく感じ、初めは「10時間ってことは…10時間前か?」みたいな軽いノリの冗談みたいなボケだったのが、徐々にエスカレートして、最後の方には「今までなんとなくみんなルールは守ってたんだけど…」「これは革命だぁ!一発で殺せる」みたく、とんでもない話になっている、ゆっくり気がつけば深いところに引きずり落とされていくような感じがあって、それも観ていてたまらなかったです。

 

日本エレキテル連合

 

1本目「感動の再会」

あらすじ:2年前から連絡がとれなくなった「龍ヶ崎ジョー」に会いたいという女と、その女のために龍ヶ崎ジョーを探したという番組の司会者。再会はできるのか。

2本目「歩く女達」

あらすじ:東京中を「歩くのが仕事」だという女達の会話。

 

率直に言って今回一番楽しみだったのはこの人達で、その理由はシソンヌも天竺綿も自分がよしもとの劇場のライブに通っている限り、大阪でも祇園でも今後も観られる機会はあるだろうけど、この人達は(まして関西で、それも本ネタとなると)ホントにこの先ここで観とかないと自分にはもう、機会があるかどうかもわかんないな、と思ったのもあって。

あと、単純に「今、この人達のテレビじゃ出来ないネタ」は、観たい。と思ったのも大きいです。とにかく、なんやかんやで今回「観たい」欲が強かった人達。

 

さっきのシソンヌが、ネタの中で常識から外れる度に、観ている側が「えっ」て思うような、ギョッとするような言動をじろうさんがする度に、長谷川さんは必ず間髪入れずのタイミングでキレキレの言葉でツッコミにして笑いに変えて、世界を常識に叩き戻してくれる、観ていてちゃんと毎回安心させてくれるのに対して、こっちは一貫してやり散らかしていく。ふたりともが常識から外れていく側だし、観ている側がそれをイチイチ胸の内でツッコんでいても間に合うようなものですらない。どんどん世界が散らばっていく、崩れていくのを静かに楽しむ、というか、声も立てられずに笑っていくしかないような感じ。個人的に今回いちばん笑ったのは天竺鼠だったけど、一番印象に残った(というか、消化しきれずにいつまでも頭に残る)のはエレキテルの2本目でした。

そんな、本当にメチャクチャで、どこにも取っ付きどころのカケラもないようなコントをしている人達のようにも思えたけど、そんな中でも「今回スタッフが日本中をくまなく探し回りました。国後、択捉、歯舞、色丹、尖閣諸島竹島…」「あさま山荘」「マクモニーグル氏」「8.6秒バズーカー」みたいなワードを選んでくるヘンなところに尖りながらポップな感じや、依頼者の女のどうしようもない挙動不審さ、歩く女達の執拗すぎる化粧と、その足元に並べられたボロボロの大きな紙袋などに連想される「別に具体例を知ってるわけじゃないけど、いかにも「確かにその辺に居そう」って感じがする、街角に存在するアウトな人たち」への再現性や執着がすごすぎる感じ、そして2本目の「歩く女達」のコントの後、3組で即興でユニットコントをする企画があったんですが(企画については後述します)、その時にも二人は2本めのコントの衣装のまま(それも化粧を落とすどころか、さらに顔中に塗り増して)登場し、中野さんに至っては即興コント内のキャラまで2本目で演じたキャラが延長線上に出演してきたような台詞を持ってくるなど*3、随所で観てる人の心を掴んでくる、「この人達の世界をもっと知りたい!」と思わせる、そういうフックがやたらに多い人達だな、とも感じました。そして、きっとこの「つかみ所の全くないコントをしているのに、世界観を見渡すと気になるところ、もっと知りたいところがいっぱいある」という不思議な感じこそが、今のこの人達のコアな部分の人気を掴んでいるんだろうなあ、とも。

あともう一つ、一番気になったのが、舞台で観る橋本さん*4が、テレビで観ている時よりも「相方に言われたままに動くだけの人」感がすごかったこと。本当に一貫して中野さん*5がコントの世界や台詞回しに関する部分などは一貫して作っていて、完全なる指示の上に動いているんだな、というのが感じ取れるくらい、観ていて舞台の上に「ひとり分の世界観」しか存在していない、確かに二人の人間が居て言葉のやりとりをしているのに、そこに存在する意思や哲学は一人分しか存在していない、ひとりの人が自分の特徴やクセを完全に映しこんだコピーとコントをしているような、そんな不思議な空気感がありました。

(ちょっと伝わりづらいかもしれないですが、ハロープロジェクトの人達の歌を聴いている時に、「恐らくこれ、つんくさんがデモテープ歌ってたんだろうな」って感じてしまう位に女の子の歌い方までつんくさんの歌い方になっている時の「これはこれでいいのか…?」って思う違和感、あれに近いような感覚を覚えました。)

これはいわゆる「ネタ書く方と書かない方の関係」とかいうのとも違って、普通ならネタ書く方と書かない方が完全に分離していても、ネタを書く方は書かない方の相方の固有の人間的なクセや特徴、個性は尊重して、それに合わせるようにネタを書いていると思うけど、エレキテルの場合はせいぜい「相方は自分より体躯が大きい」「声色が少し違う」くらいしか尊重しないないのでは、と感じるくらい。あとの個性や性格のような部分は一切何も残させず、自分の世界観をまるごと流し込んでいる、流し込まれている、そんな関係性のように自分は感じた。

そこに対してどんな印象を抱くか、どういう風に見るかは人の数だけあると思うし(そもそも自分の見立ては自分だけのもので、そうでもないのかもしれないし)、良いとか悪いとかいう話をするものでもないと思うし(現にその形で大成功しているんだし)、ただ、あまりに「ここまでの関係性はなかなか観たこと無いなあ」と思って、すごくビックリしました。

そこまで自分を相手に飲み込ませるか、というのと、そこまで自分を放り出して他人を受け入れて合わせられるか、っていうのと。そこにどんな思いを抱くのも、自由だとは思います。個人的には惹かれた。

 

天竺鼠

 

1本目「歴史の授業」

2本目「ボクシング」

 

もうホントにめちゃくちゃ笑った、今回一番笑ったのは天竺鼠でした。

もはや2本ともあらすじの必要もないし、ネタの内容や世界観とか関係性の言語化されもさせられないような(「ボクシング」に至っては、もはや瀬下さんの顔芸だけで時間を持たせるようなコント!)、ただただ「こういう状況でこういうことをするとオモロい」「しかも、ずーーーーーーーっとそれだけを二人でやり続けるとオモロいだろう」というアイデアだけで延々と見せられ続ける、それだけで前2組に負けるとも劣らない笑いを取ってしまうアホさとカッコよさ。

天竺鼠の中でどういう計算があったのか判りませんが(観ているこっちとしては「シソンヌも日本エレキテル連合も、すごく作りこんだコントを持ってくるコント師だから、というのを意識して、敢えて逆を行ったのか」とか想像してしまうけど、それすらも野暮なのかもしれないし)、ただただ2本ともめっちゃくちゃ笑いました。

 

◎ コーナー「即興シャッフルコント」

 

3組×2本ずつで1時間強のコントの後は、軽いコーナー企画がありました。

まずは全組での軽いトーク。「このライブでは各自普段やらないネタをやってる」「もし(気持ち悪くなって)帰りたくなった方は帰ってもらってもいいですよ?」など。

天竺鼠とシソンヌは衣装から普段着に着替えて出てきたが、エレキテルだけコントの格好のまま。さっきより化粧がどぎつくなってる。

川原「さっきより仕上がってるやん」

エレキテルのコントについて。

川原「一番「不思議な時間」だった」「何をやってん?w」

長谷川「ソデで見てて悲しくなった」「(登場人物に対して)何とかしてあげたくなった」

川原「なんで自分らテレビに出れてるん?」

中野「わかんない」「掘り起こすな!って思ってる」

他にも天竺鼠のボクシングのコント内での仕組みの話や、それぞれの「キャラはモデル(となる人物)が居るのか」といった話など。

 

そして企画の即興シャッフルコントへ。ルールとしては

・3組のコンビを分解して3人×2チームにして先攻と後攻に分け、

・先行は後攻の、後攻は先攻のチームのコントの「設定」「絶対に言わないといけない台詞2つと、オチの台詞1つ」「登場人物の配役」を指定する

・指定された内容で、準備時間ほぼゼロでコントを開始して、なんとか完遂させる

といったようなもの。

 

クジで振り分けた結果は先攻が「シソンヌ長谷川・エレキテル橋本・天竺鼠瀬下」チーム、後攻が「シソンヌじろう・エレキテル中野・天竺鼠川原」チームに。ホントに偶然ながら3組全てがネタ書く方と書かない方が完全に分かれてるコンビで、うまいこと「書かない側」と「書く側」だけが集まってしまうチームが作られてしまう形に。

各組のコントの詳細などの記録はさし控えますが(ただ、ネタ書いてないチームの3人のコントは誰も話を進めようとせずに延々とパスだけが続いてすごいグダグダして、その押した時間を取り戻すように、ネタを書く側チームの3人のコントは一瞬で設定を全部使い切って終わらせにいく超ショートコントだったのは記録しておきます)、個人的にはシャッフルコントも良かったけどその合間の「ネタ書かない3人」「ネタ書く3人」だけが舞台に残されて相手側のコントの開始を待ってる時の短い会話も楽しかったです。

(以下、なんか印象に残ってる部分のメモ)

・川原さん、中野さん、じろうさんが3人とも話を振り出せずに黙りこむ度に、じろうさんがワザとらしく明るく「ハイ!そういうわけでね~」と仕切り直そうとするノリ

・「ここ3組ともコミュニケーション能力に問題がある、楽屋でも誰も話してないし目も合わせてない」

・「吉本さんはいい劇場ですよ、前に小道具のクワを忘れてきて「クワってありませんよね?」って訊いたら、すぐに「どっちのクワにしますか~」って、先の割れてるクワと割れてないクワを持ってきて貸してくれた」

・「あっちは3人ともネタ書ける方だけど、その分3人とも個性が強いから、逆にぶつかり合って大変だと思う」

 「まぁ俺らも3人とも無個性同士でぶつかって、別に何も生まれなかったけど」

 

 

そんな風に色々あって、計90分とちょっとのライブでした。

時間にすればけして長くなかったけど、内容の濃さがすごかった気がするのと、個人的にはコントよりも漫才やトークやゲームコーナーものとか大喜利のライブを観に行ってることが多くて*6、個人的には「がっつりとしたコントのライブを観る」ってあまり今までに経験してなくて、「コントって漫才よりもテレビで観る時との体感の違いが大きいな*7」と改めて思うような、すごく今までに使ってない頭の部分を使いながら観たような、そんな新しい楽しみを覚えたような、あと、天竺鼠はもちろん、シソンヌと日本エレキテル連合もいつか単独観に行きたいな。と、ホントにそういう興味を持てるきっかけになるライブでした。

今後も各地を3組で回っていく予定みたいなので、機会があればぜひ!

*1:いわゆるお笑いライブでよく見られるような、音楽が流れ、出演者名が順番に表示され、最後に公演タイトルが表示されるタイプの映像なんですが、今回のなかなかに不穏なタイトル、不穏なメンバー、今からどんなライブが始まるのか想像しきれない観客の期待を煽るような、なかなかサイケでかっこいいVTRでした。DVDとか出る時があれば絶対入れといて欲しい

*2:特に測ったりはしていないものの、恐らく3組のどのコントも10分前後のサイズだったと思われます

*3:これに関しては自分が勝手にそう感じただけかもしれないですが、2本目のコント内で「人の指輪を奪ってでも欲しがる」女が、即興コントで本来はお金を要求すればよかったはずの役どころなのに「ジュエリーを持ってこい!」って言ったのは、きっとそういう(繋げてくる)意図があったのかな、と自分は感じました。

*4:いわゆる朱美ちゃんの側の人

*5:いわゆる細貝さんの側の人

*6:今まであまり意識してなかったけど、改めて振り返るとそうだったなと思った、ヘタしたら「月刊コント」以外でコントライブって自分は殆ど観てきてないような気さえする

*7:なんか、漫才やピン芸は基本的に、観る側の視点は演者自身やセンターマイクからそんなに動かないと思うけど、コントを観る時って演者はもちろん、背景とか衣装とかセリフを喋ってない側の受け答えしてる時の仕草とか、自分で好きに視点動かしていいってなったら、なんかあちこち見ちゃうな、って今更にして思った

猛将列伝

 

祇園花月の2月10日の夜公演「猛将列伝」を観に行きました。

 

「猛将列伝」は過去にも何度か不定期に大阪で開催されている、ミサイルマン岩部さん扮する「武将様」が様々なゲストを集め、武将様が考案したいろんなゲームや企画を行うライブだ、と聞いていました。

あと、事前に聞いていたのは「オリジナルの歌の時間がある」とか「手作りの小道具や舞台上の仕掛けへの作り込みがすごい」とか「全体的に、明らかにサービス過剰」とか「とにかく観たらわかるし、絶対面白い」とか。聞けば聞くほどよくわからないライブですが、とにかく初めて自分で観られる今日を、本当に楽しみにしていました。

平日の祇園で満員です。しかも、今日は同時刻に「R-1ぐらんぷり」の生放送もあるのに。始まる前からボルテージは高いです。

 

19時過ぎ。ゆっくり照明が落ち、開演前に鳴っていたBGMも静かに消え、次に舞台に照明が灯されると、そこには武将様が。

まず最初に武将様から今日の満員御礼を申し上げる口上があり、続いて、武将様とバックダンサーの女性4名による、テクノポップのような歌と踊り。

再びの暗転の後、今日のゲストである8名(野性爆弾川島さん・笑い飯・千鳥・ダイアン西澤さん・かまいたち)と、武将様の、合計9名の呼び込み。

「奈良!!死者を蘇らせる奇跡の左手!!!笑い飯西田幸治!!!!」

↑こんな感じで各芸人ごとに用意されたキャッチフレーズのナレーションが流れ(声はもちろん武将様)、舞台上のスクリーンには呼び込み用の映像が流れ、ひとりづつ(武将様のプロデュースによる、それぞれに特徴のある、戦国風の装いをした)ゲストの芸人さんが舞台に上がっていきます。

ここまで、舞台上に全員が揃ってオープニングらしいトークが始まるまでで、たっぷり15分は使っています。でも、全然冗長に感じない、ずっとテンションが上がり続けるだけの楽しい時間。

 

やっと全員が揃うと、軽いオープニングトークがあり、続いて武将様の仕切りによる大喜利のコーナーがあり、コント仕立てのゲームコーナーがあり、最後に歌のコーナーがありました。

別に急にめんどくさくなって説明が駆け足になったのではないんですが、それぞれのコーナーの詳細な紹介は今回は割愛させていただきます。単純にキリがないのと、出来れば次回以降の「猛将列伝」を劇場で観て、その狂いっぷりを確かめていただきたいので。

ただひとつ確かなのは、どのコーナーもいわゆる普通のお笑いライブの大喜利のコーナーやゲームコーナーのような感じではなく、一貫して「武将様の世界」であり、例えば大喜利のコーナーでは面白い回答をした人には武将様が直々にお餅をあげる、というルールになっているのに、「南国小熊の大名行列!」というSEが流れた時はコアラのマーチが、「お餅いつまでも~!」の時はガム、「♪甘味固形の接吻(♪バレンタインデイ・キッスのメロディで)」の時は「ばあやのチョコレート(辛いらしい)」が与えられ、笑い飯西田さんがその特異な左手を掲げると10個のお餅が宙を舞い、笑い飯哲夫さんの背中には矢が突き刺さり、さらに途中からは舞台上をネズミが駆けまわり、千鳥ノブさんにしか見えないキツネが現れて勝手に答えを書いていく、、、などなど、挙げだすと本当にキリがない、とにかく武将様考案のありとあらゆるカオスな茶番が2時間延々と続くようになっていて、演者さんも観客もひたすら振り回されっぱなしの、心を掴まれっぱなしでした。

そして何よりも他のお笑いライブと一線を画すると思われるのが「武将様」というキャラの特異性で、武将様は最初に出てきた時から「武将様」であり、自分のことを「ミサイルマン岩部のキャラのひとつ」だとかは絶対に舞台上で言わないし、このイベントに対する説明らしい説明もしません。始まった瞬間から、武将様は武将様であり、このイベントは当然のごとく「猛将列伝」であり、ここは「戦国時代」である、それを当然のように話し、振る舞います。

今のお笑いだと、芸人さんがキャラを作って振る舞う時、そこには「こういうキャラでやっているけど、実際の(普段の)自分は~」というギャップを使ったり、特に武将様のような「ぶっ飛んでる」キャラを演じる時は、舞台上でヘンな事を言ってスベったりヘンな空気になった時、自分から笑ったりテレたりして空気を崩して笑いに繋げたり、あるいは最初からその狙いで敢えて「ヘンな事を言って、スベって、それを自分で崩して笑いにする」っていう計算でキャラを作ったりするコトもありがちですが、武将様はずっと本気だし、どんなにヘンな空気になっても一切テレたり、心が折れる瞬間を見せたりしない。ずっと目がまっすぐ輝いていて、声色が一切震えない。

そこに対しては、自分がどんなにヘンな感じに持って行っても、自分から崩さずともゲストの強力すぎるメンバーが「何言うとんねん!」とか「それの何が面白いねん!」とかツッコんでくれることでフォローしてくれる、という確信と信頼があるというのもあるだろうけど、何にせよ自分で作った設定に対して、自分から崩したり茶化したりして絶対にウラ笑いにしない、その世界観があまりにも完璧すぎて、観ていても武将様のその頼もしさ、ハートの強さにどんどんヤラれてしまいます。

とにかく、ずっと続くいろんな茶番であったり、次から次へと出てくる小道具であったり、めちゃくちゃヘンなオリジナルゲームのルールであったり、最後の謎のオリジナルソングであったり、ありとあらゆる手を尽くして観る者とゲストで出演する人達を飽きさせない、武将様のアイデアの豊富さと、イベントプロデュース力というか、「絶対に満足させる」という意気込みのような力が凄くて、ちょっと普段のお笑いライブで感じるそれとは段違いの「濃さ」にやられてしまう、今までに何度も開催されていて演者もリピーターで来ている人もすごく楽しみにしている理由が1回観たら絶対に理解できる、すごく楽しくて魅力のあるライブでした。

 

次回もまたいつか、祇園なのか大阪なのかは判りませんが、きっと開催されるだろうと思われます。その時はぜひ参戦手形(=チケット)を手に、いざ劇場へ!